犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

終身刑は死刑に匹敵するか

2008-01-27 15:45:02 | 時間・生死・人生
我が国では、8割前後の国民が死刑制度に賛成している。このような状況下においては、世界の潮流は死刑廃止の方向に進んでいると言われても、多くの日本人には何だかピンと来ない。世界の半分以上の国では死刑が廃止されている、国連の死刑廃止条約にも多数の国が批准している、西側先進国で死刑制度を存置しているのは日本とアメリカの一部の州だけだと言われたところで、生きた情報として実感できない。どうして世界の人々は、凶悪な殺人犯に対して死刑を求めずにいられるのか。なぜそんなに犯人に寛容でいられるのか。この直感的な違和感に片を付けなければ、大上段から「日本は世界の潮流と逆行している」と言われたところで、多くの日本人は困ってしまう。政治的なイデオロギーは、人間の倫理観の方向性までは強制できないからである。

死刑廃止論と必ずセットで論じられるのが、代替刑としての絶対的終身刑(仮釈放のない終身刑)の問題である。一方では、終身刑は生命が奪われない限りにおいて死刑とは原理的に隔絶しており、終身刑は死刑には及ばないとの意見がある。他方で、一生狭い部屋に閉じ込められて世間から隔離されることは、すぐに殺されるよりも絶望的な状態を強いるものであり、終身刑はむしろ死刑よりも残酷であるといった意見もある。どちらが重いのか、どちらが軽いのか、このような比較の問題に持ち込んでしまっては、いつまでも平行線が終わらない。終身刑は死刑に匹敵するか、この解答は、ある一点の真理において自ずから示される。すなわち、すべての人間は必ず死ぬ。死刑でなくても人は死ぬ。

安楽死や尊厳死、終末期医療は倫理的な問題を喚起する。快復の見込みがなく死期の迫った患者に人工呼吸器や心肺蘇生装置を着けて生命を維持するだけの延命治療には批判も多いが、いずれ死ぬべき運命にある人間は、功利主義によって解答を出すことができない。なぜなら、「人間は1分1秒でも長く生きることに意味がある」という命題を否定してしまえば、自らの生命の根拠も危うくなるからである。現に人間は、自殺という死の方法も所有している。人間が生命という形式をもってこの世に存在する限り、その生命は必然的に時間性を有する。それゆえに、死は時間性の喪失をもたらす。時間性の喪失とは、永遠かつ無である。ここでは永遠と無が同義となる。終身刑が死刑に匹敵するものとして人間が倫理的に納得できることがあるとすれば、突き詰めればこの一点を深く納得することの中にしかない。死刑の問題は、死の中から死刑という特殊な一形態のみを取り出して論じられるものではない。

凶悪殺人犯が終身刑によって死刑を免れて長生きしたところで、いずれ寿命で死んでしまえば、その犯人は永久に時間性を喪失する。何十億年の宇宙の側から見てみれば、50歳で死刑になろうと、終身刑で100歳まで生きようと、微々たる誤差のようなものである。それにもかかわらず、ここでもう一度ひっくり返して、人間は倫理的に問わねばならない。死刑でなくても人は死ぬ、しかしそれゆえに死刑によってのみ死なせなければならない死があるのではないか。これは世界の潮流がどうであろうと、生きて死ぬ人間が自問自答すべき問いである。このように倫理的に問うてみると、法律的な問題の立て方は不正確であることがわかる。「死刑が執行された後に冤罪が判明した場合に取り返しがつかない」と言ったところで、死刑でなくても人は死ぬのだから、いずれにしても取り返しがつかない。「終身刑の受刑者に国民の税金で飯を食わせるのは問題である」といった主張は、問いの所在を政治的に汚染するだけであり、単に有害である。