犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞の社説 その2

2008-01-10 01:10:38 | 時間・生死・人生
1日9日の朝日新聞の社説における福岡地裁の判決への批判の中では、次のようなことも述べられている。「なにが危険運転にあたるのか。どこまでが『正常な運転』なのか。新しい法律なので、裁判所によって判断にバラツキがあるのが現実だ。はっきりとした基準をつくるには、判例を1つずつ積み重ねていくしかあるまい」。確かに全くそのとおりである。過失犯である業務上過失致死罪なのか、故意犯である危険運転致死罪なのかが今回の裁判の争点であり、当然ながらはっきりとした基準が必要である。

しかしながら、この社説の「はっきりとした基準をつくるべきである」という主義主張は、被害者遺族の心情と完全にずれている。そして、このずれこそが、犯罪被害者遺族の問題の問題たるゆえんと言ってもよい。愛する人の理不尽な死を前にした者にとっては、「はっきりとした基準の確立」など、正直どうでもいい話である。五官の失われた死者には、死後に確立される基準など認識できないからである。人間の生死を突き詰めたときに至るラディカルな地点は、法律や判例といった話とは次元と異にする。従って、被害者遺族と刑法学者との議論全く噛み合わない。

条文解釈や判例の射程を日々研究している法律家から見れば、遺族によって開催されている「生命のメッセージ展」は寝言である。「犯罪のない社会を」と訴えられても、そのようなものが実現するはずがない。「二度と同じ思いをする人がいなくなるように」と言われても、人間がいる限りこの世から犯罪は消えないのだから、そんなものは無理である。このような常識的な視点から、遺族は可哀想な人達だとの視線が向けられ、保護の対象として扱われる。そして、心のケアによって立ち直りが促進され、修復的司法が進められることになる。

しかし、人間はどういうわけか、「生命のメッセージ」という文法を理解する。そして、存在するはずのない死者からの問いかけを存在させ、それに解答を与えることができる。これは生きて死ぬ人間の恐るべき逆説的真実である。これが寝言にしか聞こえないのは、たまたま自分が犯罪被害者として命を落としておらず、自分の愛する人も犯罪で命を落としていないという偶然に基づくものにすぎない。この偶然は幸運であり、奇跡的である。この奇跡を忘れた人間は、当然の論理が理解できない。当然の論理とは、死者からのメッセージは、「犯罪のない社会を」「二度と同じ思いをする人がいなくなるように」以外にはあり得ないという端的な事実である。恣意でも感情でも何でもない、確固とした論理である。

被害者遺族が厳罰化を求めるのは、死者からのメッセージを受け取るからである。これは、論理的には過失犯であっても死刑を望むしかない。これに対して、法律の理屈が社会政策的な視点から「厳しすぎず甘すぎずバランスが取れた適当な刑罰の実現」を志向するのは、人間の生死に対する考察が鈍いからである。朝日新聞の社説は、「はっきりとした基準をつくるべきである」という主義主張の具体策として、判例を1つずつ積み重ねことを挙げている。これは論理的に、飲酒運転によって死亡する人の存在を必要とする。すなわち、犠牲者の発生を待ち望むことを必然的に含意してしまう。そして、そのことに気付いていない。これではどちらが寝言だかわからない。