犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞の社説 その1

2008-01-09 00:12:47 | 時間・生死・人生
1日9日の朝日新聞の社説において、福岡市東区の3児死亡事故に関する福岡地裁の判決に対する批判がなされている。判決は、今林大被告の行為は危険運転致死傷罪に該当しないとして業務上過失致死傷罪を適用し、懲役25年の求刑に対して懲役7年6ヶ月の刑を言い渡した。社説の論調を見ると、確かにもっともなことが書いてある。しかしながら、刑が軽すぎるという結論部分はよいとしても、論調は色々な意味で平板であり、何となくもどかしい。これは朝日新聞がどうという話ではなく、ジャーナリズムによるオピニオンが持つ性質である。

社説は「これが危険運転にあたらないというのは普通の人の常識に反していないだろうか」、「国民の常識からかけ離れたものであってはならない」などと述べている。このようなありきたりの批判が法曹界でまともに受け止められることはない。憲法の定める法の支配、違憲立法審査権、司法権の独立といった概念を原理的に掲げている現在の裁判制度の下では、このような批判は「裁判というものを正しく理解していない」として一笑に付されるだけである。この堂々巡りは延々と続いている。

そもそも司法権の独立とは、裁判が普通の人の常識に反すること、そして国民の常識に迎合しないことに積極的な意味を見出す考え方である。大衆社会による人民裁判を排除し、あるべき法の客観的な意味を探るのが法治国家である。素人ではなく専門的に訓練を積んだ法律家がその客観的な意味を探るように努めることにより、法の客観性は維持されるということである。今回の裁判も、あるべき危険運転致死傷罪の客観的な意味を探るという視点からは、ごく当然の判決が下されたという評価しか出てこない。しかしながら、犯罪被害者遺族を苦しめるのは、まさにこの客観性の押し売りである。

絶対的であるように見えた客観性が脆くも崩れるのが、人間が「死」に直面した時である。次のような例を考えてみればわかる。客観的な条文の解釈で日々悩み、論敵を倒すことに夢中になっている法学者が、何となく体調が悪いので病院に行ってみた。すると、あろうことかスキルス性の胃がんが進行しており、余命半年と宣告された。さて、この時客観的な条文はどうなるのか。見事に崩れるに決まっている。死とは主観の絶対的な消滅であり、それに伴って客観も消滅するからである。専門家が法律の客観性を唱え、遺族がそれに対する違和感を唱える構図は、人間の死を客観的な条文で扱うことの不可能性に端を発している。

新聞の社説は「裁判が国民の常識からかけ離れたものであってはならない」といった緊張感のない主張をしている。このような捉え方では、客観的な専門家が主観的な一般人を見下し、「裁判というものを正しく理解していない素人が感情で厳罰化を叫んでいるのだ」といった反論がなされ、十年一日の堂々巡りに突入するだけである。人間の生死の問題は、国民の常識や多数決の問題ではない。