犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

諸富祥彦著 『人生に意味はあるか』

2008-01-29 22:00:44 | 読書感想文
人生に意味はあるか。諸富氏は最初にはっきりと答えを書いている(p.12)。すなわち、「どんな答えに行き着くか」は重要ではなく、「どれほど本気で答えを探し求めるか」が重要である。これが答えである。このような答え方に対しては、問いに正面から答えていないとの不満も予想されるが、この種の問いに正面から答えているような解答は意味がない。人生の根本問題は、あくまでも自分で真剣に考え抜いた末の答えでなければ正解ではあり得ず、他人から教えてもらった答えはすべて不正解である(p.36)。

自分の魂は、どうして“いま・ここ”の“この私”を選んでやってきたのか。他の星でも、他の国でも、他の物体でも、他の生き物でもよかったのに(p.35)。このような直感的な問いは、非常に魅力的で面白いものである。ところが、答えを出そうとすると、それは一気に苦しい悩みに転落する。ここで苦しみから逃れようとして他人に解答を求めてしまうと、逆に正解は遠のく。人生に意味はあるかといった種類の問いは、自分で初めて発見した答えでなければ納得できない(p.179)。他人の人生ではなく、自分の人生だからである。その後になって、すでに先哲が同じ答えを出していたことを知ったならば、ガッカリするのではなく喜ばなければならない。

すべての人間は必ず死ぬ。自分もいつかは死ななければならない。この恐怖と不安から生じるニヒリズムに対抗するため、人間は色々な手段を考え出した(p.94)。例えば瞬間的な快楽を追及する刹那主義、人間の絶対的尊厳を信じるヒューマニズム、すべてを意味づける絶対者を信じる宗教などである。これらはすべて、ニヒリズムの変形にすぎない。そうである以上、死の中でも最大の不条理である犯罪による死に関して、人権論がピントのずれた理論しか提供できないのも当然である。犯罪による死によって残された遺族が直面しているのは、「急性の実存的空虚」「絶望の実存的空虚」と言われるものである(p.43)。このような問題については、法律学よりも文学のほうが適任である(p.75)。トルストイやゲーテが一生を賭けて描写しようとしたのは、人間の孤独や絶望、空虚さといったものであった。

真理を得るためには、他者が思考を終えた後の遺物の蓄積は役に立たない。哲学史や思想史を年代別に覚えることは、真理を得る営みとは最も遠いことである。下手に知識があると、それに捕らわれて有害な結果を生じてしまう(p.228)。本来、真理を追い求める行程は、いずれはどうしようもない行き詰まりにぶつかるはずである(p.202)。その極限において、ようやく立脚点の転換が生じる条件が整う。諸富氏は随所に非常に上手い言い回しを用いているが、これも理解できなければ理解できないのが正解であって、理解しようとすれば正解は逃げてゆく。「いのちが、私している。はたらきが、私している。存在が、私している。たましいが、私している」(p.208)。

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