犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第9章

2008-01-13 01:15:39 | 読書感想文
第9章 犯罪者福祉型社会の「更生モデル」

平成17年以降、いくつかの刑務所が大慌てで性犯罪者の更生プログラムを開始している。ある少年刑務所では、所内の小部屋に6人1組で性犯罪者を集め、丸く並べた椅子に向かい合って座り、なぜ性犯罪に手を染めたのか、犯行の時どう感じたのかをディスカッションさせている。自由に語り合わせて内省を深めるのが目的らしいが、素人目に見ても効果が上がるわけがない。内省とはその定義により自分一人でするものであって、ディスカッションとは対極にある行為だからである。他人に対して議論を持ちかけながら、自分自身の足元を掘ることはできない。

幼い女の子に一生涯残るようなトラウマを与えてしまった犯人は、内省によってどのような心境に至り、その後どのように自分を責めながら生きているのだろうか。その女の子の両親にはどのように謝罪したのだろうか。犯人は一生涯、死ぬまで自らを責める思いに苛まれ、いかなる瞬間にも女の子の心の傷を忘れることなどできないだろう。犯人はその事実の重さに押し潰されていないだろうか、自殺したかも知れない・・・。刑務所内のディスカッションと聞いても、どうしてもこのような想像ができない。もちろん中には真摯に更生した犯人もいるだろうが、それはあくまでも本人自身の力である。

更生とは、その定義により自分でするものであって、他人の力に頼ってするものではない。自分の人生は自分の人生であり、自分は他人の人生を生きることができず、他人は自分の人生を生きることができないという単純な理由による。国家が責任を持って犯罪者を更生させようという「更生モデル」には、その根本から転倒がある。犯罪者が身を削るほどの反省をして初めて、その先に更生という概念が浮かび上がってくるはずである。最初から更生を目的とするのでは、形だけの反省文や示談書が横行するのは当然である。本気で更生をしたいのであれば、裁判官に対して「少しでも重い刑を言い渡してください」「1日でも長く刑務所に入れて下さい」と述べるのが筋だからである。

「社会の偏見や無理解が犯罪者の立ち直りを妨げ、更生したいのに更生できなかった。再犯の原因は、本人ではなく社会の側にある」。このような理屈に頼っている限り、再犯はいつまでも繰り返される。性犯罪者の再犯率が高く、幼い女の子を持つ両親がその出所後の動向に関心を持つことは当然である。そして、それが犯罪者への偏見と同義であるとすれば、それは社会が犯罪者に偏見を持つことも当然であることを意味する。「自らが更生をすることが被害者への償いにつながることになる」、被害者に対してそのような無理な理屈を押し付けて更生の覚悟を決めた以上、その道が厳しいのは当然のことである。単に国家の「更生モデル」によって更生の義務を押し付けられ、それに従っているだけの話であれば、その覚悟が座っていないのも当たり前である。

朝日新聞の社説 その2

2008-01-10 01:10:38 | 時間・生死・人生
1日9日の朝日新聞の社説における福岡地裁の判決への批判の中では、次のようなことも述べられている。「なにが危険運転にあたるのか。どこまでが『正常な運転』なのか。新しい法律なので、裁判所によって判断にバラツキがあるのが現実だ。はっきりとした基準をつくるには、判例を1つずつ積み重ねていくしかあるまい」。確かに全くそのとおりである。過失犯である業務上過失致死罪なのか、故意犯である危険運転致死罪なのかが今回の裁判の争点であり、当然ながらはっきりとした基準が必要である。

しかしながら、この社説の「はっきりとした基準をつくるべきである」という主義主張は、被害者遺族の心情と完全にずれている。そして、このずれこそが、犯罪被害者遺族の問題の問題たるゆえんと言ってもよい。愛する人の理不尽な死を前にした者にとっては、「はっきりとした基準の確立」など、正直どうでもいい話である。五官の失われた死者には、死後に確立される基準など認識できないからである。人間の生死を突き詰めたときに至るラディカルな地点は、法律や判例といった話とは次元と異にする。従って、被害者遺族と刑法学者との議論全く噛み合わない。

条文解釈や判例の射程を日々研究している法律家から見れば、遺族によって開催されている「生命のメッセージ展」は寝言である。「犯罪のない社会を」と訴えられても、そのようなものが実現するはずがない。「二度と同じ思いをする人がいなくなるように」と言われても、人間がいる限りこの世から犯罪は消えないのだから、そんなものは無理である。このような常識的な視点から、遺族は可哀想な人達だとの視線が向けられ、保護の対象として扱われる。そして、心のケアによって立ち直りが促進され、修復的司法が進められることになる。

しかし、人間はどういうわけか、「生命のメッセージ」という文法を理解する。そして、存在するはずのない死者からの問いかけを存在させ、それに解答を与えることができる。これは生きて死ぬ人間の恐るべき逆説的真実である。これが寝言にしか聞こえないのは、たまたま自分が犯罪被害者として命を落としておらず、自分の愛する人も犯罪で命を落としていないという偶然に基づくものにすぎない。この偶然は幸運であり、奇跡的である。この奇跡を忘れた人間は、当然の論理が理解できない。当然の論理とは、死者からのメッセージは、「犯罪のない社会を」「二度と同じ思いをする人がいなくなるように」以外にはあり得ないという端的な事実である。恣意でも感情でも何でもない、確固とした論理である。

被害者遺族が厳罰化を求めるのは、死者からのメッセージを受け取るからである。これは、論理的には過失犯であっても死刑を望むしかない。これに対して、法律の理屈が社会政策的な視点から「厳しすぎず甘すぎずバランスが取れた適当な刑罰の実現」を志向するのは、人間の生死に対する考察が鈍いからである。朝日新聞の社説は、「はっきりとした基準をつくるべきである」という主義主張の具体策として、判例を1つずつ積み重ねことを挙げている。これは論理的に、飲酒運転によって死亡する人の存在を必要とする。すなわち、犠牲者の発生を待ち望むことを必然的に含意してしまう。そして、そのことに気付いていない。これではどちらが寝言だかわからない。

朝日新聞の社説 その1

2008-01-09 00:12:47 | 時間・生死・人生
1日9日の朝日新聞の社説において、福岡市東区の3児死亡事故に関する福岡地裁の判決に対する批判がなされている。判決は、今林大被告の行為は危険運転致死傷罪に該当しないとして業務上過失致死傷罪を適用し、懲役25年の求刑に対して懲役7年6ヶ月の刑を言い渡した。社説の論調を見ると、確かにもっともなことが書いてある。しかしながら、刑が軽すぎるという結論部分はよいとしても、論調は色々な意味で平板であり、何となくもどかしい。これは朝日新聞がどうという話ではなく、ジャーナリズムによるオピニオンが持つ性質である。

社説は「これが危険運転にあたらないというのは普通の人の常識に反していないだろうか」、「国民の常識からかけ離れたものであってはならない」などと述べている。このようなありきたりの批判が法曹界でまともに受け止められることはない。憲法の定める法の支配、違憲立法審査権、司法権の独立といった概念を原理的に掲げている現在の裁判制度の下では、このような批判は「裁判というものを正しく理解していない」として一笑に付されるだけである。この堂々巡りは延々と続いている。

そもそも司法権の独立とは、裁判が普通の人の常識に反すること、そして国民の常識に迎合しないことに積極的な意味を見出す考え方である。大衆社会による人民裁判を排除し、あるべき法の客観的な意味を探るのが法治国家である。素人ではなく専門的に訓練を積んだ法律家がその客観的な意味を探るように努めることにより、法の客観性は維持されるということである。今回の裁判も、あるべき危険運転致死傷罪の客観的な意味を探るという視点からは、ごく当然の判決が下されたという評価しか出てこない。しかしながら、犯罪被害者遺族を苦しめるのは、まさにこの客観性の押し売りである。

絶対的であるように見えた客観性が脆くも崩れるのが、人間が「死」に直面した時である。次のような例を考えてみればわかる。客観的な条文の解釈で日々悩み、論敵を倒すことに夢中になっている法学者が、何となく体調が悪いので病院に行ってみた。すると、あろうことかスキルス性の胃がんが進行しており、余命半年と宣告された。さて、この時客観的な条文はどうなるのか。見事に崩れるに決まっている。死とは主観の絶対的な消滅であり、それに伴って客観も消滅するからである。専門家が法律の客観性を唱え、遺族がそれに対する違和感を唱える構図は、人間の死を客観的な条文で扱うことの不可能性に端を発している。

新聞の社説は「裁判が国民の常識からかけ離れたものであってはならない」といった緊張感のない主張をしている。このような捉え方では、客観的な専門家が主観的な一般人を見下し、「裁判というものを正しく理解していない素人が感情で厳罰化を叫んでいるのだ」といった反論がなされ、十年一日の堂々巡りに突入するだけである。人間の生死の問題は、国民の常識や多数決の問題ではない。

養老孟司・テリー伊藤著 『日本人の正体』

2008-01-06 01:18:11 | 読書感想文
契約社会であるアメリカには桁違いに多くの数の弁護士が存在し、契約条項を増やしている。これは、当人たちは言葉に忠実であると思っているが、言葉を増やすことは一種のインフレであって、言葉は軽くなっている(p.57)。日本も近年は似たようなことになっている。家庭裁判所では、民法770条1項5号の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」という条文の一言一句について議論が繰り広げられており、言葉が大切にされているように見える。しかし、そもそもそのような議論が必要なのは、「汝、健やかなるときも病めるときもこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り固く節操を守らんことを誓いますか?」「誓います」との言葉が軽くなっているからである。

言葉とは、「同じ」である(p.64)。言葉はそれによって指示されるものを意味し、指示されないものを示さず、同じものを「同じ」とし、違うものを「違う」とする。法律の条文は日常言語の多義性を排除して厳密に意味内容を確定しようとするが、そもそもその意味の源は、法律の力の及ぶところではない。「憲法9条」が日本に存在するように見えるのは、言葉それ自体の力である。100人の人間が六法全書を持っていて、それぞれの六法の憲法の項に「第9条」という文字が印刷されているが、それが憲法9条であるわけではない。もちろん、国立公文書館にある憲法原本の毛筆の文字でもない。憲法の原本が仮に消失しても、その瞬間に憲法がなくなるわけではない。これが言葉の力である。

養老氏は憲法9条の改正をすべきだと考えているが、これは政治的な意味ではなく、言葉という意味においてである(p.59)。憲法9条には「武力を永久に放棄する」と書かれているが、人間の作る文章の中に「永久に」という言葉を入れてはいけない。永久など、常識から見てデタラメにならざるを得ず、かえって言葉が安くなるからである。有限である人間が永久という時間軸を持ち込んでしまえば、人間は人間が作るものを改正することができなくなる。単なる決意の表明であると言うこともできるが、永久ではないのに永久であると嘘をついているのであるから、やはり言葉が安くなることが避けられない。

自分の命の大切さ、他人の命の大切さは、いかにすれば教育できるのか。それは、死とは何かを教えようとすることの中にしかない(p.188)。日頃から死を見つめておけば、結局のところ現世肯定をするしかないことに気付きやすい。死を見つめることによって、殺人や自殺といった行動を防止できることになる。これも逆説的な真実である。これに対して、現世否定の思想は、現状への不満や不幸の感情から生じてくる。これが高じると、極端な反体制の思想になってしまうのが良くあるパターンである。反体制の思想は、殺人事件の被害者や遺族に対して非常に冷たい。これは、日頃から死を見ないようにして、死とは何かを考えていないがゆえのニヒリズムである。

このブログの目的 もう一度

2008-01-03 22:39:29 | その他
私は大学院で、「被害者と法」というテーマを選択しておりました。被疑者・被告人の人権保障に比べて被害者の立場はあまりに弱く、近代の立憲主義そのものに根本的な疑問を感じていたからです。そして、大学院や刑事法の学会では、修復的司法の推進が主流になっており、多くの教授も学生も同じことを繰り返していました。「日本社会はようやく忘れていた被害者を思い出したのだ。それでも我が国の被害者支援は、欧米先進国に比べて、約20年も遅れている。一刻も早く追いつかなければならない」。私も他の同級生も、そのような希望を持って研究を進めておりました。そして、正しいことをやっているのだから、被害者や遺族から感謝の気持ちやほめられることあっても、決して非難されることはないだろうといった単純な自信を持っておりました。

ところが、細かい文献を調べて専門知識を仕入れるアカデミズムの実態に触れ、私は徐々に違和感を覚え始めました。忘れていた被害者を思い出したといっても、刑事法学会が自らの体系の維持に都合の良い形で被害者を思い出しているにすぎないのではないか。自分は専門家にありがちな偏狭な上から目線によって被害者を解釈し、無理に理論の枠に押し込めようとしていたのではないか。そして、ある同級生の一言が、私の違和感を決定的なものにしました。「これからは修復的司法の時代だ。まだ新しいテーマだから、理論も成熟していない。それだけに、一旗揚げるには非常に条件がそろっている。何か論文を書いて認められ、壮大な理論を構築して、この方面のパイオニアになれば、民法の我妻栄や刑法の団藤重光のように学会に名を残すことも可能だ」。私はその同級生を、心の底から下品だと思いました。

私は自らの心に問うてみました。私は今のところ犯罪被害者ではなく、幸いにも身内や友人に大きな犯罪被害に遭った人はおりません。そして、今後も私は絶対に通り魔などでは殺されたくありませんし、身内や友人にもそのような被害には絶対に遭ってほしくありません。これは紛れもない事実です。「あなたもいつ犯罪で命を落とすかわからないのですよ」といった言葉を聞けば、脅されているようで不愉快になります。これも偽らざる事実です。ここで私は、大きな問いにぶつかりました。いったい、被害者でない者が被害者の保護や救済や支援をすることは、論理的に可能なのか。理解して支援をするのならば、まずは共感しなければなりません。そのためには、自らも経験するのがベストです。そこまで行かなくても、少なくとも「経験したい」という意志がなければなりません。ところが、私も同級生も、誰も「経験したい」などという意志は微塵もありません。それどころか、犯罪被害は人生において最も避けたい事項です。私は自らの偽善に気づき、途方に暮れました。

私はとりあえず、暫定的で稚拙な答えを出して先に進みました。犯罪被害の経験がない者に、犯罪被害者の気持ちは絶対にわからない。「お気持ちはわかります」と言えば、これは完全に嘘になる。そうかといって、「お気持ちはわかりません」と言ってはならない。究極的にはわからないが、わかろうとしなければならない。その意味で、わからないことがわかっているし、わかっていることがわからない。これは逆説ではなかろうか。また、被害者でない者が被害者の支援をすることは、絶対的に偽善を含むものである以上、常にその偽善に苦しめる人にのみ被害者の支援ができるのだという結論にも至りました。これは、大学院の研究には反する結論でした。実証科学とは、自らの仮説を根拠とデータによって裏付けるという方法だからです。私は、自分が考えていることが、犯罪学や刑事政策学を超え、刑事訴訟法学も刑法学も超えてしまっていることを知りました。

大学院の同級生は、このような偽善性に苦しんでないないどころか、誰もそのような偽善性の存在自体に思いが至っていませんでした。アカデミズムからすれば、私の考えのほうが全く異常でした。私は自らの考えの一端を披露しては、意味がわからない、勉強不足だ、理解が足りないと言われました。しかし私には、専門用語と難解な理屈ばかりを切り回し、実際に多くの被害者の方々に受け入れられないような研究に一生を捧げる気はありませんでした。そこで、公式なレポートと並行して、自らの直感的な違和感を言語化する作業を始めました。その文章は、主張を根拠によって論証するという法律学の原則を全く逸脱しており、とても専門家からは評価される代物ではありませんでしたが、私にはそのような形式の文章しか書けませんでした。しかし、偽善性に全く苦しんでいない同級生よりも、偽善に苦しんでいる自分のほうがまだましだという信念はありました。たとえそれが同級生へのレッテル貼りであり、自己満足に過ぎないとしてもです。

私は学問的にも浅学である上に、その知識すらも利用せず、社会科学にとっては生命線である文献の調べ物もさぼっており、ここに書いている文章は学問の体をなしておりません。どうしても修復的司法への批判が多くなり、真摯に修復的司法を通して被害者支援をされている方に不愉快な思いをさせてしまっている点については、非常に心苦しく思います。私には何の野心もなく、学問的打算もなく、まだ表現の形式を求めてもがいている段階ですので、何とぞご容赦をいただきたく存じます。このブログに「犯罪被害者」の検索からいらして下さった方には、私の拙い文章のワンセンテンス・ワンフレーズから何かのヒントを得たり、何らかの考えるきっかけを得て頂ければ望外の喜びです。また、「法哲学」の検索でいらして下さった方には、世の中にはこんな変わった法哲学をしている人もいることを知って頂き、笑って頂ければ幸いです。

年頭の辞

2008-01-01 02:01:23 | その他
昨年は、様々な問題が発生し、社会が大きく変化した年でありました。我々がこのような変化を生き抜いて行くためには、広い視野を持ち、常に最先端の情報を追求することが不可欠であります。旧態依然として変わらずにいることなど断じて許されません。変化のないところに進歩はありません。変化は痛みを伴うこともありますが、それを乗り越えてこそ自らを変革することができるのです。

我々は今すぐにでも広い視野を持つように努め、一人一人が自らの頭で考え、個人レベルで意識を変えていくべきです。内外の政治、経済、社会も混迷の度を深めており、まさに一刻の猶予も許されない時期にさしかかっております。時代はまさに曲がり角であり、1秒でも早く行動を起こさねばならない時に来ております。

歴史的大転換を迫られた今、今までの古いやり方では、新しい国の枠組も、生活、社会のモデルも創造することはできません。今ここにある危機を放置すれば、我々の社会は永久に取り返しのつかないことになります。今年は、我々が自らを変革することができるのか、まさに勝負の年であります。

2007年(平成19年)1月1日


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間違えました。これは昨年の年頭の辞です。