犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

日弁連・法廷弁護指導者養成プログラム

2008-01-15 17:40:57 | 時間・生死・人生
裁判員制度の導入が近づき、法律家が話し方や説明能力を磨く訓練を始めている。裁判所ではアナウンサーを招いて「人をひきつける話し方」の研修をしたり、日弁連ではアメリカの弁護士を招いて法廷弁護戦術をレクチャーしたり、裁判員制度の開始に向けて余念がない。ここで何よりも重視されているのは、プレゼンテーションの力を磨くことである。素人中心の裁判員に対しては、検察官や弁護士がいかに上手く説明できるかが勝負の分かれ目になると考えられているからである。

日弁連の研修では、「動かないで左右均衡に立ち両手は胸の下で合わせる」「手を握り締めない」「メモを読まずに証人の目を見る」といった技術がレクチャーされているそうである。一見して小手先の技術論である。そもそもプレゼンテーションとは、企業の販売促進のための宣伝・広報活動であり、「我が社の製品を購入して頂ければこれだけのコストダウンが実現できます」といった企画・提案のツールである。言ってしまえば、金儲けのためのツールである。「罪と罰」という人間の実存的な苦悩を扱うにしては、どうにも浅さと軽さがぬぐえない。

模擬裁判でよく取り上げられるのが、殺人罪において殺意の有無が争われる事件である。裁判所の研修では次のような光景があったそうだ。検察官は、「包丁で2回刺したのだから明確な殺意に基づく犯行だ」と訴えた。これに対して弁護士は、「1回刺されたのに、男は女のほうに向かっていった。『ターミネーター』みたいなやつ、誰だって怖いでしょ」と反論した。白を黒と言いくるめる検察官、黒を白と言いくるめる弁護士、ソクラテスの時代のソフィストを思い起こさせる。真実よりも勝負を優先する、ここには人が人を裁くという実存的な緊張感がない。

仕事が専門化するということは、情報の入出力が限定化されるということであり、それ以外の入出力を拒否するということである。裁判に携わる者にとっての大前提は、故意犯である殺人罪(刑法199条)と、結果的加重犯である傷害致死罪(刑法205条)との構成要件的な区別である。そして、証拠裁判主義(刑事訴訟法317条)の下では、殺意を裏付ける証拠がなければ、犯人を殺人罪で処罰することはできない。しかし、裁判員は素人であるが故に、その程度の説明で納得するはずもない。検察官は白を黒と言いくるめた、弁護士は黒を白と言いくるめた、それでは「本当のところ」はどっちなのだ。どうしてもこのように問いたくなる。人が人を裁く以上、この問いの発生は必然的である。

殺意の有無についてプレゼンテーション能力を高めることに躍起になり、真実よりも勝負が優先されれば、小手先の技術ばかりが重視されるようになることも当然である。人間の生命をプレゼンテーション能力で左右できるという思い上がりは恥ずかしい。人が人を裁くという制度を始めるならば、本来であれば相当の覚悟が必要なはずである。生きている人間が他者を殺した人間に罰を与える、ここでは殺された人間の一生分の時間に対して正面から向かい合うしかない。死によって、人間の一生は輪郭を持ったものとして完結するからである。生死という人間の大神秘を目の前にして絶句する、人間はこれを正当にも「畏怖」と呼ぶ。人が人を殺す、それをまた別の人が裁く、この言語道断の状況に直面して、人間は一体どこまで鈍感になれるものか。

このような哲学的な疑問は、もちろん法律実務家からは切って捨てられる。いわく、「裁判とは そのような哲学的なものではない。被告人に構成要件に該当する行為が存在するか否か、有罪・無罪の別と量刑を判断するだけの制度である」。全くその通りである。近代刑事裁判とはそれだけの制度である。

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