犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞「オーサー・ビジット」 養老孟司氏@山形県立山形中央高校

2008-01-31 22:19:19 | その他
山形中央高校における講演 「何でも<同じ>なんておかしい」より

「君たちは『客観的な現実』や『誰もが認める事実』が存在すると言うけど、そんなものはありません。今この瞬間、君たちの目に映る私の姿は、それぞれ違う。でも日本人の99%はそういうことに気付いていない。……感覚の違いだけが強調されると、社会が成り立たないから、脳は物事を大ざっぱにまとめて<同じ>と考える。その結果、言葉がすくい取らなかった感覚的な違いを押しやり、物事を概念でとらえて<同じ>と思い込もうとする社会になっていく」


人通りの多い交差点で交通事故が起きた。目撃者が沢山いる。目撃証言を集めれば集めるほど、客観的な事実が明らかになるはずである。だから犯人の自白に頼らず、客観的な証言を沢山集めなければならない……。法律学はこのような常識に立脚しており、裁判実務もこの大前提に立脚して精緻なシステムを構築している。ところが、養老氏に足払いを掛けられれば、このシステムは見事に倒れる。法による合理的で客観的な事実認定など、人間が物事を概念でとらえて<同じ>と思い込んだことの結果にすぎないからである。もちろん、養老氏の言うように、日本人の99%はそのようなことに気付いておらず、専門家はさらに気付いていない。従って、裁判所は今日も客観的な事実認定に余念がない。

裁判員制度の導入がいよいよ近付き、始まる前から問題山積の状況のようである。法律の専門家による導入反対論は、大体は知識のない素人大衆に向けられた不信の念である。いわく、起訴状記載の公訴事実は検察官の主張に過ぎないのに、素人はそれを理解しない。素人は、検察官の主張する事実は提出した証拠をすべて事実だと信じ切ってしまう。素人は証拠能力や証明力の判断よりも、ワイドショー的な「真犯人は誰か」という方向に興味を持つ。素人は厳密な論理よりも情に流される。被疑者が警察に逮捕され、マスコミで報道されれば、素人はその人間を「犯人」だと決め付ける。これらの批判は、いずれも伝統的な人権論の変形である。

養老氏が『バカの壁』などを通じて一貫して揶揄しているのは、この専門家が素人を見下す視線である。「被疑者が警察に逮捕され、マスコミで報道されただけでは、まだその人間が本当に犯人であるのかわからない。客観的な事実などわからない」。伝統的な人権論は、文字にしてみれば養老氏の指摘と同じであるが、その指し示すところは正反対である。「客観的な事実などわからない」、そう言っているあなたは、結局のところ「『客観的な事実などわからない』という客観的な事実はわかっている」と言っているにすぎないのではないか。真犯人だけは真実を知っているとすれば、少なくとも真犯人にとっては「客観的な事実などわからない」という命題は偽であるから、「『客観的な事実などわからない』という命題は万人にとって真である」という条件が崩れてしまうのではないか。

養老氏の論を突き詰めていけば、法律の論理にはどうしてもこのような足払いがかかる。人間は誤判を犯す、だから誤判は許されない、これが法律の専門家による素人大衆への不信の念を正当化する論理である。しかし、人間は職業裁判官であろうが素人裁判員であろうが誤判を犯すものであり、許されようが許されまいが誤判を犯す。誤判を許してもらおうと思っても誤判はなくならず、誤判を許してもらおうと思わなくても誤判はなくならない、単にこれだけのことである。そもそも誤判とは、人間が物事を概念でとらえて<同じ>と思い込み、「合理的で客観的な事実認定」という概念を構築したことに伴う必然的な逆効果だからである。