犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

逆説の真実

2008-01-23 23:19:57 | 時間・生死・人生
平成14年10月に山口県周南市で起きた三菱自動車製トラックの欠陥による死亡事故につき、1月16日、横浜地方裁判所で同社の元幹部らに対して有罪判決が言い渡された。禁錮3年・執行猶予5年の判決を受けた元社長の河添克彦被告は、「企業経営者に実現不可能な義務を課す判決で、承服できない」との談話を出し、即日控訴した。弁護団も、「メーカーの場合、人身事故が起きたら企業トップは必ず刑事責任を取らなくてはいけないという極めて安直な判決だ。最近の過失理論とは懸け離れている」などと述べて控訴審で争う姿勢を示した。

この大企業の元社長の談話は、予測可能性を至上命題とする近代社会のシステムが、哲学的真実と厳しく抵触することを如実に示している。経済的な利益を上げることを大前提とする以上、企業の社会的責任、法令遵守、コンプライアンスなどと叫んだところで、どうにも出口が見えないのも当然のことである。弁護団が述べる「最近の過失理論」とは、結果回避義務違反を中心として捉える新過失論を指しているものと思われるが、これも哲学的真実に反することを売り物にしている理論である。

このような事故において、被害者遺族が企業のトップに必然的に求めざるを得ない謝罪とはどのようなものか。これは、「確かにこの事故は企業経営者にとって予測不可能なものでした。しかし、何を言っても亡くなった方の命には代えられません。私達はどんな責任でも負います」というもの以外ではあり得ない。このような謝罪は、予測可能性を何よりも重視し、結果責任を排除する近代社会の理論から見れば非合理的である。予想もできない結果責任を負わされる危険があれば、企業は安心して経済活動などできない。それ故に、その責任をすべて負う覚悟を示すことだけが、逆説的に唯一の謝罪の言葉となる。もし遺族の赦しというものがあるとすれば、その先にしかあり得ない。この世の論理は、どういうわけかこのような形をしている。

「この事故は企業経営者にとって予測不可能なものである。従って、私達に責任はない」。このような主張は、近代社会にとってはこの上なく合理的である。しかしながら、合理的であるが故に、この主張は被害者遺族の怒りと悲しみを増幅させる。これが端的な事実である。この世の論理は、どういうわけかこのような逆説的な形をしている。予測不可能であるからこそ、「予測不可能であった」と言われると怒りが増す。人間の倫理は、本来であれば予測不可能であっても結果責任負いたくなるはずである。これが生命の尊厳に対する畏怖である。このギリギリの苦しみに押し潰されそうになる人間の姿を示すことのみによって、逆説的真実は自然と現れてくる。

交通事故の被害者が刑事裁判だけでは気が収まらず、加害者を民事裁判に訴えるのは、このような逆説の真実に伴うものが多い。被害者としてはお金よりも、とにかく謝罪の言葉がほしい。誠意を見せてほしい。加害者には、「許してもらおうなどとは思っていません。自分の人生は二の次にして、一生かけて償いをします」と言ってほしい。被害者としては、加害者がこのような人間的な姿勢を見せてくれたならば、わざわざ裁判に訴える必要もない。ところが加害者は、被害者から大金を請求されることを恐れ、裁判に訴えられることを恐れ、言質を取られることを恐れる。それによって被害者の怒りと悲しみが増幅し、逆に裁判に訴えられてしまう。こうなると両者の決裂は修復不能である。近代法の予測可能性の理論が見事に逆説的に作用している例である。

「私はすべての言い訳を捨てて、被害者のためにどんな罰でも受けます」、このような謝罪は、近代社会にとっては悪ですらある。法と道徳の峻別という法治国家の大前提に反し、冤罪を防止するための罪刑法定主義にも反するからである。しかしながら、被害者が加害者に求めている謝罪は、この近代社会にとって悪とされるところのものである。まずは、近代社会の法律的真実は時代を超えた哲学的真実に反することを認識しておいたほうがいい。真実とは逆説である。加害者には罪を軽くするために徹底的に防御する権利を与えつつ、被害者には小手先の補償を与えることによって幕引きを図ろうとするのは無理な話である。