犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第10章

2008-01-22 23:29:45 | 読書感想文
第10章 百年前の正義

歴史上、犯罪被害者の長い苦難の道のりは、近代人権主義の確立とともに始まった(p.100)。この指摘は的確である。そして、的確であるが故に、この指摘は隠蔽されることが多い。近代人権主義からは、犯罪被害者は「保護」すべきであるが「権利」は認められないとの結論に至ることは必然である。犯罪被害者の権利を認めてしまっては、近代人権主義のパラダイムが根底から崩れるからである。近代人権主義からすれば、犯罪被害者に権利を与えることは地動説を天動説に戻すようなものであって、何が何でも絶対に認められない話である。

『この国が忘れていた正義』という本の題名は、「犯罪被害者の権利を認めることが正義であり、犯罪者の権利ばかりを認めているのは正義に反する」という意味ではない。一旦正義を正義として掲げると、それ以外の正義が見えなくなり、それどころか自らの原理原則にそぐわないものには不正義とのレッテル貼りをする危険性を指摘したものである。犯罪被害者の哲学的な苦悩は、政治的な善悪二元論で解決するものではない。誰しも声を大にして主張するのは正義である。それゆえに、冤罪の防止や代用監獄の廃止を絶対的な正義とするパラダイムにおいては、犯罪被害者の存在は邪魔である。戦後長らく犯罪被害者の存在が見落とされていたと言われるが、近代人権主義のパラダイムを維持すべき要請からすれば、被害者の存在は過度に恐れられ、それゆえに意図的に切り捨てられていたと言うほうが正確である。

昨年2月の法制審議会において、民刑併合の附帯私訴が導入される見通しとなった。もちろん、民事と刑事を厳格に分離する近代法の大原則に反するという反対論も強いが、そもそも近代法の大原則を疑ってかかろうというのが附帯私訴なのだから、このような同語反復の反対論には意味がない。近代法の大原則を維持しつつ犯罪被害者に保護を与えてごまかそうとしても、犯罪被害者にその大原則を疑われてしまえば、もはや小手先の妥協案では済まない道理である。どんなに法律を整備したところで、肝心の日本国憲法には犯罪者の権利ばかりで被害者の権利が書いてないとなれば、被害者切り捨ての構造は変わっていないと言われても仕方がない。善悪二元論に基づく正義は、あくまでも犯罪者の側に絶対的に握られたままだからである。

近代人権主義は、過去の歴史の苦い経験を経て、その教訓の上に打ち立てられた正義である。それでは、その正義の影響によって被害者が無視されていることは、現在の苦い歴史の経験ではないのか。歴史とは、どの過去も現在であり、どの未来も現在であることを認めることである。この現在の現在に絶対的な基準を置くことができないならば、過去の過ちを反省しないのが、過ちに対する正しい態度である。過去の人類は過ちを犯した、我々はその苦い経験から教訓を得たと豪語したところで、過去の側は痛くも痒くもない。近代人権主義が跡形も無く消え去ったとしても、正義が正義であることはびくともしない。自分たちこそが正義の担い手であると叫んだところで、正義にとってはうるさいだけである。

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