犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

存在論の問い

2008-01-19 17:45:57 | 時間・生死・人生
「この前までいた娘がどうして今はいないのか」。裁判所が嫌うこの種の問いは、哲学的に見ればハイデガーの存在論の中核の問いである。近代裁判のパラダイムからすれば非合理的と位置づけられるこの種の問いは、合理と非合理を包み込んだ存在論の原点に立つ。もちろん数学のような答えは出ない。それがゆえに、法律的なパラダイムからは、問いの所在がつかめない。

アリストテレスは述べた、「哲学は驚きから始まる」。ライプニッツは述べた、「世界はなぜ存在するのであって、無ではないのか」。アリストテレスによって「存在とは何か」と定式化された形而上学の問いは、ライプニッツによって先鋭化され、さらにハイデガーによって突き詰められる。存在とは、世界の究極の根拠であると同時に、それは己の本質をあらわにすることができず、根拠として呈示することができない。それは常に述語であって、主語たりえない。この驚きが存在論である。「あるはあり、ないはない」。

世界はいくらでも別様であり得たのに、なぜこのようであるのか。「この前までいた娘がいなくなった」という世界の状態は、あくまでも1つの可能な世界の状態である。しかし、世界は別様でありうるが故に、別様ではありえない。この世界の差異が驚きをもたらし、偏差が絶望をもたらす。「なぜ娘はいなくなったのか」という哲学的な問いは、日常生活を破壊する。ゆえに実用性を重視する実証科学は、客観的な真実としてそれなりの答えを用意し、究極的に問いを遡ることを許さない。その上で裁判所は、「なぜ娘は殺されなければならなかったのか」という問いを嫌う。そして、金銭的な補償をすれば遺族の怒りは収まるはずだとの結論に走る。

存在は、時間と空間の下で姿を現す。存在はこの形式から逃れられない。すべての思考は時間の内にあり、空間の内にある。さらには、世界に何かが存在するという事態が可能となるためには、そこに「私」が居合わせなければならない。「私」を通してのみ、世界の時間と空間は開かれるからである。世界の中に何かがそれ自体で存在しうると考えるのは錯覚に過ぎない。その意味で、哲学的な存在論は、法律的な存在論とは覚悟が違う。「私が存在する」「私の娘が存在しない」といった言明と、「未必の故意が存在する」「違法性阻却事由が存在しない」といった議論とでは、一見して存在論のレベルが違う。

形而上の問いは実用性がなく、現代社会では正面から問われることは少ない。しかし、人間がその問いから逃れられるわけではない。しかも現代社会では、実用的であるはずの形而下的な問いの多くも行き詰まっている。ここでは、形而上の問いにどれだけ強靭に取り組んだかがその後の結果を左右する。「生活保護法制の見直しにおいて老齢加算の段階的廃止は認められるべきか」という問いは、究極的には「なぜ人は生きるのか」という問いに収束する。「巧妙な偽装請負をいかにして立証するか」という問いは、究極的には「なぜ人は働かなければならないのか」という問いに収束する。裁判も同じである。どんなに細かい法律用語による議論も、最後は「なぜ娘は殺されなければならなかったのか」という問いに収束するはずである。

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