犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

マニュアル思考で存在論が語れるか

2008-01-30 21:53:27 | 時間・生死・人生
法律団体が作っている犯罪被害者支援マニュアルには、遺族の2次的被害を防ぐための「禁句」が色々と列挙されている。犯罪によって身内を亡くした人に向かって言ってはならない励ましの言葉として、次のようなものが挙げられている(カッコの中はその理由)。

・「頑張って」(すでに精一杯頑張っているから)
・「早く元気になって」(時間をかけることが必要だから)
・「お気持ちはよくわかります」(どれだけわかっているのか疑問だから)
・「もっと不幸な人もいる」(不幸は比較できないから)

善意に基づいて良かれと思って掛けた言葉が、思わぬ逆効果を生む。せっかく犯罪被害者を支援しようとしているのに、感謝されないばかりか激怒されるのでは、支援者のほうも報われない。一生懸命やっているのに、逆ギレしたくなってしまう。このような出口の見えない行き詰まりに右往左往しながら、その状況を打開するものとして、やむを得ずこのような「禁句」のマニュアルが作られることになる。確かにマニュアルは即効性と実用性があり、トラブルの予防には威力を発揮するものである。

ところがマニュアルというものが作られると、人間の行為は画一化し、無機質かつ非人間的になる。これもまた、この世の恐るべき真理である。支援者はマニュアルを暗記し、もしくは手元に隠しながら、同じような受け答えを繰り返す。こうなると、被害者側も、「これはマニュアルの何ページに書いてあることだ」とわかってしまう。そもそもマニュアルとは、パソコンなどの電子機器の操作や、サービス業における定型的な接客の指導に相応しいツールである。犯罪被害者をマニュアルによって客体化することには、やはり弊害も大きい。

「頑張って」。「お気持ちはよくわかります」。これらの言葉も、人間と人間の話の流れの中では良い効果を生むこともある。これが心の通じ合った人間の会話というものである。ここで、どのような時には「頑張って」と言うのが有効なのか、また細かく分析しようとし、完璧なマニュアルを作ろうとすると、ますます人間の対象化が進んでしまう。「被害者は直接的な被害だけではなく2次的被害を受けるのです。周囲の人々は細心の注意を払わなければなりません」。被害者自身がこのようなマニュアルを目にすれば、その説明口調と上から目線に本能的な違和感を持つはずである。一生懸命やってくれているのはわかるのだが、「何かが違う」という感じである。

マニュアルや取扱説明書といった文の読み方と、被害者遺族の手記の読み方とは、同じ日本語であっても全く異なる。正反対といってもよい。マニュアルは「言葉が出たところ」を読めば済むが、遺族の手記は「言葉が出ようとして出ないところ」を読まなければ意味がつかめない。ああすればこうなる、次にこうすればどうなるというように、マニュアルどおりに行かないのが、犯罪被害者遺族の存在論的な苦悩である。「弱者を救済してあげます」というスタンスは、1人称でしか語れない存在論的な苦悩とは正反対の位置にある。

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