犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岩田靖夫著 『いま哲学とはなにか』  第Ⅳ章「他者という謎」

2009-03-29 23:23:37 | 読書感想文
p.134~

苦しみとは極限の受動性である。苦しみは生の行き止まり、不条理の明白な現れである。それは、極限の受動性として、無力、遺棄、孤独の中に見捨てられることである。苦しみは逃れようもなく襲いかかってくるのであり、その襲撃をたった1人で引き受けなければならない。誰かに代わりに苦しんでもらうことは出来ない。苦しみは、それ自体としては、無益であり、無意味である。では、苦しみはまったく無益なのか。苦しみ自体としては無益だが、他者への呼びかけとしては有意味だ、というのが、おそらくは、レヴィナスの最後の答えだろう。

他者に出会うとは、私が自分の気に入った者に出会うということではない。他者に出会うとは、負いたくもない重荷を負い、関わりたくもない苦しみや挫折に逃れようも巻き込まれることなのである。この場合、私を突き動かす力が善の力だとすれば、その善の息吹は私の自己意識の奥底の、志向性以前の、あるいは志向性のかなたの、それゆえに、見極めることのできない闇のうちから吹き上がってきたのではなかろうか。東洋の伝統でも、同じ考えは、「惻隠の情」とか「悉有仏性」などのことばのうちに現れているであろう。

私が断絶の深淵を超えて他者に善意を贈るとき、エゴイストとしての私が私の自由意志の力によって他者と関わっているのではなくて、おそらくは、私を超えた、私には見えない、根源の働きによって、その関わりが成立しているのではなかろうか。レヴィナスは、この事態を「自己への回帰」と言う。この連帯に基づいて息吹としての善意の「ことば」が吹き上がってくるのである。他者の苦しみに共苦することが、私の積み上げる善徳である、などということではない。私の内奥の、私を超えた、意識以前の、無始原の自己への回帰である、ということである。


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「苦しみから救われる」、あるいは「苦しみから救われない」。ニヒリズムに耐えられずに未来志向に走った人間社会が、このような論理関係を想定してしまったことが、おそらく問題を非常に複雑にしてしまった。「苦しみ」と「救い」とは、結びつければ適当に結びつくが、結びつけなければ単に結びつかない。苦しみは無意味であると宣言されたとき、それを否定しようとし、何らかの意味を見出そうとするならば、その苦しみはますます人間を脅迫する。「苦しみから救われる」という固定観念から逃れてみれば、もしかしたら「苦しみの中に救いがある」のか、もしくは「苦しみと救いは等しい」のか、それ以外の可能性があることもわかる。これは、苦しみに意味(救い)を見出すこととは正反対である。

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