犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

秋田県藤里町児童殺害事件 無期懲役判決

2009-03-28 03:01:25 | 実存・心理・宗教
秋田県藤里町で起きた連続児童殺害事件で殺人と死体遺棄の罪に問われ、1審で無期懲役判決を受けた畠山鈴香被告(36)に対する控訴審判決が、3月25日あった。仙台高裁秋田支部は、畠山被告の長女彩香ちゃん(当時9歳)殺害で自分への嫌疑を逸らすために米山豪憲君(当時7歳)を殺害したと指摘しながら、死刑判決が出た他の事件との比較などから、死刑を主張する検察と有期刑を求める弁護側の双方の訴えを退けた。畠山被告は、一審では説明していた豪憲君の殺害状況について控訴審では「覚えていません」と繰り返すようになり、検察側は「反省が見られない」と主張したが、弁護側は「反省の仕方がわからないだけだ」と反論していた。無期懲役判決を受けて、豪憲君の父親の米山勝弘さんは、「2人の子供を殺害しながらいずれ社会復帰できる判決。このような世の中でいいのか」との談話を発表した。母親の真智子さんは、「被告の言葉は響かない。被告に更生の機会が与えられるとすれば絶望する」などと訴えた。

「不慮の殺人で被害に遭った人の遺族は、憎しみを抑え切れず、極刑である死刑を望む。それを見たニュースの視聴者は遺族に感情移入し、被告人に死刑を望む。裁判では冷静な事実認定が求められるのに、このように安易に情に流されるようなことで、裁判員制度は正常に機能するのだろうか」。このように語る者は、客観的な事実ではなく、主観的な解釈を語る。「憎しみを抑えられない」「情に流される」といった解釈は、そのように捉える者によって初めて、そこにそのように存在するようになる。客観的事実なるものは、いずれ明らかになったりならなかったりするものではなく、ましてや証拠によって事実認定をする筋合いのものではない。押しも押されもせぬ客観的事実とは、被害者遺族が最愛の人と二度と会えないことであり、その最愛の人が存在しないこの世になど生きていたくないことであり、その別れは殺人者によってもたらされたということである。人間の心理状態を注意深く見てみると、そこには「憎しみを抑えきれずに死刑を望む」といった遠回りの過程は存在しない。現に存在するのは、最愛の人が生きていないこの世に自分が生き残っている事実それ自体に対する破壊的衝動のみである。

死刑の存廃論が政治的な賛否両論になると、この人間心理の繊細なところは全て吹き飛んでしまう。ある者は、「遺族は犯人に死刑を望むことが生きがいになってしまっており、ここを改めさせない限り救われない」と述べる。またある者は、「被害者遺族には報復権を認めるべきであり、死刑執行のボタンを直接押させるべきである」と述べる。この先にはさらに賛否両論が無数に枝分かれしており、ここに入り込むと出られなくなる。ここに示されているのは、そのように考える者の死生観の浅薄さである。多くの被害者遺族は、何が何でも被告人の死刑を望んでいるわけではない。但し、最愛の人を返してくれればという条件付きである。唯一かつ最大の願いは、最愛の人ともう一度会わせてもらうことである。5分でも10分でもいい、もう一度会わせてくれるのであれば、世の中の他のことなどすべてどうでもいい。もちろん死刑の存廃論などどうでもいい。被害者遺族が死刑を望むところの生命倫理は、多くの場合にはこのような形を採っている。死者は生き返らないという事実を知り抜いているがゆえに、この不合理を求めたくなる心情は動かないという点こそが、紛れもない客観的事実である。法廷における細かい事実認定など、本来であれば足元にも及ばない。

畠山被告は獄中で、「私は毎日毎日死にたいのです」といった手紙を書いている。これに対して豪憲君の母親の真智子さんは、「被告の言葉は響かない」と語っているが、あまりに当然のことである。毎日毎日死にたいと思っている者は、死刑回避を求めて争い続けることはしない。本来、娘を先に失うというこの世の最大苦の逆縁を経験したはずの畠山被告が、このような段階で悩んでいられるのは幸福なことである。被害者遺族のほうは、歯を食いしばっても「死にたい」とは言わず、言うことができず、言ってはならない。それは、最愛の人が存在しないこの世を生きていること、その事実から逃れられないこと、そしてその事実を知り抜いていることに基づいている。ここには、自ら好きで悩んでいるとか、憎しみを抑えたり抑えなかったりするといった選択権はない。最愛の人が生きていない世の中には生きる意味などないがゆえに、残された者がその言葉を口にすれば、一気に実存の深淵に引きずり込まれてしまう。ゆえに、いかなる時も唯一の救いは、最愛の人を元通りに返してもらうことである。それができない限り、その死別をもたらした者は自らの死をもって償うしかないという結論は、論理的には表裏一体であり、何らの論証も必要としない。「毎日毎日死にたい」と語って恥じるところがない被告人とは、人生で背負っているものが違う。

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