犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

法教育の問題点

2009-03-31 23:24:24 | 実存・心理・宗教
「法教育」という耳慣れない言葉がある。法教育の専門家の間では、「法や司法制度の仕組みや内容を知り、その基礎にある法的なものの考え方を理解し、これを身につけるための教育」と定義されている。法務省は平成17年5月に「法教育推進協議会」を発足させ、裁判員制度に備えて広く国民に法教育を普及するための施策に取り組むことにしているが、例によってこの取り組みは定着していない。このような国民への普及・啓発による国民の意識改革を主眼とするパラダイムは、多かれ少なかれ社会の隅々まで行き渡る壮大な体系を提示することになり、それによってイデオロギー的となる。精密かつ論理的で壮大な体系は、世界全体を知っていなければならず、すべてを演繹的に説明しなければ気が済まなくなってくるからである。しかしながら、このような取り組みは、世界全体など知ることなどできないし、知ってもどうしようもないのではないかという直感的な反発に遭う。それによって、能書きだけが空中に浮いてしまう。その反面、禁止事項というものは作った途端に破る人が出てくるのだという身も蓋もない真実は教えようとしない。

裁判員制度の導入を目の前にして、法教育の最も相応しい実践の場は模擬裁判である。生徒は実際の法曹の指導の下、裁判官役・検察官役・弁護人役などに分かれ、有罪・無罪や量刑の長さを争う。ここで必要なのはディベートの能力である。すなわち、感情に流されずに具体的な事実や証拠を元に考える論理的思考力、さらには資料を読み解く読解力などである。また、考え抜いた論理や評議を法廷の場でどう表現すれば伝わりやすいのか、「異議あり!」と叫ぶ時にはどのようなポーズを取れば効果的なのか、といったプレゼン能力も鍛えられることになる。冷静かつ理性的に、深い洞察力をもって事実を見極める。このような議論の流れにおいて、被害者の置かれる位置はいつも決まっている。すなわち、被害者は激しく怒って悲しんでおり、感情に支配されている。従って、裁判員制度における問題点は、裁判員が被害者側に同情して共感してしまい、重罰化の方向に向かうのではないかということである。そして、被害者参加人が検察官の求刑よりも重い刑を求刑したとき、裁判員はそれに引きずられて重い刑を選んでしまうのではないか、ということである。従って法教育の課題は、裁判員が被害感情に与せず、冷静に事実を見極めることに集約されてくる。

それでは、次のような状況を考えた場合、法教育はその有効性を発揮できるのか。ある殺人事件で、2人の被害者が殺害された。検察官は過去の判例と量刑相場に従い、無期懲役を求刑した。これに対して、被害者参加人が次のように述べて死刑を求刑した。「私は今日、司法制度や犯罪被害者の置かれている状況の問題点を見出してもらうため、裁判員の前で積極的に発言を行うことを選択しました。家族の命を通して、私が感じたままを述べることで社会に何か新しい視点や課題を見出して頂けるならば、それこそが家族の命を無駄にしないことに繋がると思ったからです。私は、事件当初のように心が怒りや憎しみだけに満たされている訳ではありません。しかし、冷静になればなるほど、やはり私の家族の命を殺めた罪は、命でもって償うしかないという思いを深くしています。私は、家族を失って家族の大切さを知りました。命の尊さを知りました。私は、人の人生を奪うこと、人の命を奪うことが如何に卑劣で許されない行為かを痛感しました。だからこそ、人の命を身勝手に奪ったものは、その命をもって償うしかないと思っています。それが、私の正義感であり、私の思う社会正義です。そして、司法は社会正義を実現し、社会の健全化に寄与しなければ存在意義がないと思っています」(門田隆将著 『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』より引用)。

ここでの問題点は、裁判員がこのような意見陳述を聞いて無期懲役ではなく死刑が相当だと判断したならば、それは「裁判員が感情に引きずられて安易に厳罰化に走った」というパラダイムそのものを超越してしまうということである。ここで示されているものは、具体的な事実や証拠を元に考えるロジックではなく、それを包括するところの生死の論理である。生死の論理は、他者との勝負や技術的な交渉を求めない。従って、この論理が正確に提示された場面において、法教育は無力である。死者の死は、遺された者の幸福によって埋めることはできない。犯罪による死を受け入れることは、死者の死に対する冒涜である。このようなロジックではないロゴスとしての論理を全身で受け止めた者が、被害者参加人として死刑を求刑したならば、もはや経験者でない者は何の理屈も言えないはずである。経験者本人が「命の尊さを知ったからこそ、人の生命を奪う刑罰の正しさを知った」と言うのであれば、あとは理屈ではなく直観である。その意味で、このような生命倫理の言葉にとって、法教育のパラダイムの普及は大きな障害になる。どんなに生死の論理を全身で語ったとしても、ステレオタイプの被害者像に従った解釈がなされ、「裁判員が被害感情に流されるか・流されないか」「死刑か・無期懲役か」という二元論の法廷ゲームが最初に用意されていれば、何を語っても通じなくなるからである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。