犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

河野裕子著 『わたしはここよ』より その1

2013-05-12 22:48:13 | 読書感想文

p.43~

 相手の立場と心情を斟酌できるまでにはそれだけの人生の時間と経験が要る。若い日には自分のことだけで精一杯で、その場その場を凌ぐのに全力を賭けてしまう。そのくせ、体力も畏れを知らぬ気力もあって、相手かまわず突っ走ってしまう。もののあわれなど分かるはずもなく、惻隠の情などわかるはずもなく、残酷に相手を傷つけてしまうのだ。

 6、7年前のことになるが、周囲の若い人たちとちょっとした行き違いがあって、そうとう参ってしまったことがある。「あはれ知らぬ若さのゆゑに」一撃をくらうことばを吐かれた。ゲッソリ痩せた。顔つきまで変わってしまった。わたしも若かったと思う。まだ40代の終わりで、若いひとたちを躱す術を知らなかったから、まともに傷ついてしまったのである。何と可愛らしい傷つきかたをしたものかと今では思うが、古傷といえども疼くことはあって、これが生きていることの味なのかもしれない。


***************************************************

 人間は、人生経験の積み重ねによる深まりを経なければ、心の機微や濃淡といったものを身につけることはできず、惻隠の情もわからないと思います。他方で、単に人生の時を重ねていればこれが身につくというものでもないと感じられます。この点において、客観性を至上命題とする社会科学の視点は、人生の時間の積み重ねというものに最初から価値を置いていないようにと思われます。科学的・客観的事実は、誰が見ようと変わるものではなく、その者の年齢など関係ないからです。

 これも私の狭い経験からの結論に過ぎませんが、法律は心の機微や惻隠の情とは対極的な位置にあり、法律家はこの点において精神的に幼い部分があると思います。学者のほうは専門バカで世間のことに疎く、実務家は思い通りにならないと子供のように怒る傾向があり、これらは「正義」の観念とも無縁ではないと感じます。法律や裁判は客観性を追求するものですが、自己主張を強力に押し進めることによって、客観的事実の側が引き寄せられるという状況が生じるからです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。