犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

エリザベス・キューブラー・ロス著 『死ぬ瞬間 - 死とその過程について』

2010-01-27 00:40:27 | 読書感想文
p.146~

 治療と入院が長引けば、経済的な重荷が加わる。近年では治療と入院に莫大な費用がかかるため、唯一の財産さえ手放すことを余儀なくされた患者も数多い。欠勤が多くなったり仕事ができなくなったりして職を失うこともある。これらがすべて抑鬱状態を招く原因となることは、患者を扱う人ならだれでもよく知っている。だが、忘れがちなのは、死期の近い患者には、この世との永遠の別れのために心の準備をしなければならないという深い苦悩があるということである。もしこれらの2つの種類の抑鬱状態を分類するなら、1番目を反応的な抑鬱、2番目を準備的な抑鬱と呼ぶことができよう。

 私たちは悲しんでいる人に対して、まずたいていは、物事をそう厳しい目で見ないほうがいいですよとか、そう悲観的な見方をしないほうがいいですよとか言って元気づけようとする。人生の明るい面を見てごらん、あなたのまわりの肯定的なものに目を向けてごらんと言う。こういった励ましの言葉の裏を返せば、私たちはあなたにそうしてほしいと思っている、ずっとあなたの浮かない顔を見るに忍びないよ、と訴えているのだ。終末期の患者が1番目のタイプの抑鬱状態の場合にはこのやり方が功を奏することもある。

 その抑鬱が、もうすぐ愛する者たちと別れなくてはならないことへの準備段階であって、その事実を受容するためのものだったならば、励ましたり元気づけたりしてもさほど意味がない。この場合、物事の良い面を見るようにと患者を励ましてはいけない。自分がもうすぐ死ぬことについて考えるなと言っているようなものだからである。悲しむことを許されれば、目の前に迫った自分の死をもっと楽に受け入れることができるだろうし、抑鬱段階にいるあいだ、「悲しむな」などと言わずにそばにいてくれた人にも感謝するだろう。準備的抑鬱では、まったくあるいはほとんど言葉を必要としない。むしろ、感覚でお互いを理解し合える。黙っていっしょにいるだけで十分なこともある。


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 言葉がこの世界を形成しており、言葉はそれ自体が価値であると知る者は、「人は話し合えば必ずわかり合える」とは言わないでしょうし、「黙っていては伝わらない」などとは口が裂けても言えないはずです。
 言葉が他人に伝わる過程において嘘をつき、その意味を変えてしまうことが避けられない限り、人間における最も正確な意味の伝達の方法は、以心伝心であると思います。それは、相手の言葉を聞かないことではなく、表情や言葉の調子も含めてよく聞き、じっくりと反芻することであり、言語によって可能となった究極的な状態であると思われます。

 この世には生きている人しか生きておらず、死んだ人は生きていないのであれば、そもそも生きている人間が言葉によって死を語ることは不可能であるはずです。それを何とか語ろうとするのであれば、言葉の語感を感じる方法によって、文章全体の動きを直感的に感じるしかないと思います。
 「感覚でお互いを理解し合える」「黙っていっしょにいるだけで十分なこともある」という意思疎通が可能となるためには、言語はコミュニケーションの道具であるという捉え方は有害だと感じます。また、励ましの方法の技術論の確立などは不可能であり、「言葉を必要としない」という真実が逆説であることを知るだけで十分だと思います。

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