犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

足利事件の被害者・被害者遺族

2010-01-24 23:54:26 | 国家・政治・刑罰
 足利事件の被害者遺族が今現在どのような状況に置かれているのか、全く報道がないので、私にはわかりません。ですので、一般論としての想像をするしかありませんが、それが4歳で我が子を殺された者の両親の心情である限り、すぐに想像を絶することに気がつきます。
 世間的に理解される表面的な喪失感ではなく、我が子の死によってすべての価値観が足元から崩壊し、周囲の色や音が意味を持たなくなり、生ける屍として死にながら生かされている者にとっては、「心のケア」などの誤魔化しは全く通用しないはずです。そして、犯人が罪と向き合って反省し、自分を責め続け、しかるべき刑を受けることが最低条件であり、しかもそれですら償いにはならず、遺族の苦悩は一生続くのだとしか言えません。犯人が死刑になっても、単に1つの区切りであるというに過ぎず、明るい人生を前向きに再開するなど不可能です。
 ここまででも想像を絶することですが、20年間も犯人だと思っていた人が真犯人ではなかったというに至っては、いったい何百回、何千回と胸が張り裂けているのか、想像を絶する以前に想像すべき対象すら不明確であり、思考が停止してしまうのを感じます。

 刑事政策学においても、犯罪学においても、「冤罪事件の被害者遺族」については、ほとんど向き合ってこなかったようです。これは、あまりに複雑な要素が1つの場所に集中しすぎて、向き合いようがないのだと思われます。
 犯罪被害者の苦悩と言えば、大雑把には「怒りと悲しみ」と言われ、犯人に対する怒りと、愛する者の死に対する絶望や喪失感の2つに分けられてきました。これに対して、その事件が冤罪であったとなれば、ざっと思い付くだけでも、真犯人への怒り、真犯人が判明しない絶望、真犯人を捕らえられなかった捜査官への怒り、懸命の捜査を尽くした捜査官に怒りを持ってしまう自責の念、その自責の念を持たなければならないことへの不当感、冤罪の絶望に苦しんだ被告人への同情や自責の念、その同情や自責の念を持たなければならない理不尽、その理不尽を理解してもらえない苦痛、なお被告人が真犯人ではないかとの希望、その希望が世論からのバッシングを生む恐怖、冤罪を生んだ責任の一端を負わされることの恐怖、その恐怖を感じなければならないことへの不当感、複雑な人生に巻き込まれた自分自身への不信などが複雑に絡み合い、これらの重層的な苦悩の最上位には、愛する者の死に対する絶望と喪失感が包括的に存在するのだと思います。

 足利事件が起きたのは平成2年5月であり、その後の20年間の被害者遺族の心情については、報道がないので、実際のところはわかりません。もし、20年間をかけて徐々に怒りと悲しみから立ち直っていたとすれば、今回の結果は地獄だと思います。
 他方、愛する我が子の死から立ち直ることなどできず、20年間をかけてますます悲しみを深くしていたのであれば、これはさらに地獄だと思います。このような状況は、いわゆる「悲嘆のプロセスの12段階理論」(麻痺→否認→パニック→怒り→敵意→罪責感→空想→孤独→無関心→受容→新しい希望→立ち直り)においても、さすがに想定されておらず、完全に説明に窮すると思います。時の経過に重きを置いている以上、その時の経過が全く無意味であったとなれば、12段階をまた1からやり直すことすら絶望であり、段階そのものが滅茶苦茶に崩壊して、手の打ちようがない精神状態に追い込まれるからです。
 また、修復的司法の理論においても、冤罪事件の被害者遺族は最初から視界に入っていないようです。「被害者遺族は犯人を恨むことが生きがいとなっており、怨恨の呪縛から解放されなければ救われない」と言われたところで、その生きがい自体が喪失してしまっては、解放も救いも何もないからです。

 これも一般論としての想像ですが、「なぜ冤罪が起きたのか」「この教訓を無にしてはならない」「被告人の名誉と人権の回復を急げ」「捜査や裁判の過程を徹底検証せよ」といったテーマによる一律の報道は、失われた命を思って苦しむ遺族にとっては、凶器の言葉で全身を刺されているように感じられ、耳を塞がざるを得ないと思います。これは、悲惨な冤罪の防止というテーマ自体はどこから見ても正しく、それゆえに凶器と感じられるのは誤解であるという意味で、共感を得ることが難しく、口に出せないので耳を塞ぐしかないという意味です。
 足利事件についても、殺人事件そのものは風化したままであり、時効の完成によって真相解明の希望もなく、「なぜ自白に偏ったのか」「二度と冤罪を生まない体制を作れ」という議論の場には、殺された4歳の女の子の命の重さはありません。また、無辜の者を犯罪者に仕立て上げた捜査官への怒りというストーリーにおいては、被害者の4歳の女の子は匿名化された記号であり、背景の一部を構成するのみです。さらに、「DNAの功罪を見極めよ」という枠組みにおいては、殺された女の子は、完全な証拠物です。
 「被告人のDNA型と女児の下着に付着した体液の型は一致しない」という論点の前には、「その最後に着ていた下着には、たった4年の短い人生であっても生きていた証が残されている」という繊細な感情は押し潰され、出る幕はありません。

 無実の罪で絶望の闇に叩きつけられ、獄中から叫びを上げても聞いてくれない、このような体験を経た者の「私の人生を返してくれ」「間違ったでは済まされない」という訴えは、世論においては深い共感が可能であり、非常に説得力があります。何回繰り返しても、正義の力によって、その威力が落ちることはありません。それは、「二度と冤罪を生まない体制を作るべきである」とのゴールに有機的に結びつく点において、主義主張が直線的であり、捜査官に対する怒りを共有した者における連帯が容易であるという点に起因するのだと思います。
 これに対し、「娘の人生を返してくれ」「元に戻らない限り解決はない」という訴えは、表面的な共感はあっても、深い理解は非常に困難です。それは、遺された者が同じところを生きていることによって、そこだけが深く掘られてゆき、底なしの絶望の中で同じところを往復し、ゴールに着いたと思ったら一瞬にしてスタート地点に返されるような経験は、実際に生きてみなければわからないからです。従って、「死者の命を返せ」という訴えが繰り返されると、世間では論理的に筋の通らない感情論として客体化されるのが通常だと思います。
 このような世間の価値観の下では、「生きていてくれさえすればそれだけでいい。殺されることに比べれば、何十年間刑務所に入っていても出てくればやり直せる」と感じても、口に出すことは難しいと思われます。

 ここ数十年の犯罪被害者保護法制の拡充においては、「日本社会はこれまで被害者の存在を見落としてきた」と言われることがありました。そして、本来の政治的スタンスにおいて相容れない弁護士会も、「社会全体で犯罪被害者保護に取り組まなければならない」と述べています。ここにおいて、最後に残された試金石が、「冤罪事件の被害者・被害者遺族」に対する捉え方だと思います。そして、足利事件の一連の報道を見る限り、やはり社会は被害者の存在を見落とし続けていると感じます。
 最愛の者の死を乗り越えられることなどできず、この世のものとは思えない現実と悲観の中で、被告人に対する正義の法の裁きを唯一の心の支えとして生きてきた者にとって、その被告人が真犯人ではない事実を受け入れることは、心の支えを奪われるどころか、そのことについて自己反省と自己否定を迫られ、生きる希望を何重にも奪われる経験であると想像します。ここにおいては、言語化の過程において複数の感情を同時に表現することは難しく、しかもそのすべての感情において適当な言葉がないとしても、繊細な精神によって人間心理の複雑なあり方を丹念に辿るしかないと思われます。
 また、人間の負の感情は諸感覚に訴えて多元的であるがゆえに、現実に同時に起きている感情について、それに順番をつけて1つ1つ語っていく積み重ねの作業が不可欠なのだろうと思います。

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1 コメント

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まさか、起訴されたら、やってなくても罪を償え!!!とでも? (清高)
2010-08-04 20:57:15
「『冤罪事件の被害者・被害者遺族』に対する捉え方」ねぇ。この点からすると、殺人事件の時効廃止は一歩前進でしょう。

ただ、当然のことながら、やったと認定できない被告人に罪を償わせることはできないでしょう(「凶器の言葉」でも仕方ないんじゃないの?)。そのことは指摘しないで、抽象論(「繊細な精神によって人間心理の複雑なあり方を丹念に辿る」、「人間の負の感情は諸感覚に訴えて多元的であるがゆえに、現実に同時に起きている感情について、それに順番をつけて1つ1つ語っていく積み重ねの作業」)で逃げるのはいただけませんね。

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