犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小川洋子著 『博士の本棚』

2011-12-17 00:02:35 | 読書感想文
p.38~ 「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」より
 作家の前にはいつも真っ白い原稿用紙が置かれている。そこにゼロから世界を作り上げ、登場人物たちを動かし、再び世界を完結させられるのは、自分1人しかいないと信じている。
 ところが本書を読むと、果たして本当にそうなのだろうかと疑問がわく。もしかしたら、作家が自分で作り上げたと思いこんでいる虚構は、既にどこか、自分のすぐそばの現実の中にあったのではないか。作家はただそれを見つけ出し、言葉を与えたに過ぎないのではないか。

p.66~ 「トゥルー・ストーリーズ」より
 人間は誰でも死ぬのだから、ある程度生きていれば、家族や友人の死に出会うのは当然の成り行きだろう。しかし彼はただ単純に、あの人も死んだ、この人も死んだ、でも自分は生きている、と言っているのではない。
 1つ1つの死は、決して消えない刻印を残した。生者は目の前から去ったのではなく、死者として新たに生まれたのだ。繰り返し彼は刻印を凝視し、その痛みを味わうことによって、死者と交流している。生きている者が示すのと同じ意味深さを、死者の存在もまた示している。

p.239~
 心臓病の子どもを抱え、苦しんでいる友人がいる。彼女は、「息子が死ぬことをどうしても受け入れられない」と言った。自分の生んだ子どもが消え去ったあとの世界がどうなるのか、そもそもそこに世界など存在するのか、想像できないのだろう。
 友人としてなす術のない自分に苛立ちながら、同時に私は、彼女の姿から子どもを愛する純粋な人間の心を感じ取り、厳かな気持になったりもした。自分の命をなげうってでも守りたいものがある人生とは、何と尊いのだろうか。
 一方で子どもを虐待死させる親もいる。合理的な理由などなく、子どもを失ったあとの世界について思いを巡らせもせず、そこに死が訪れるまで、ただ自分の感情を吐き出すことにのみエネルギーを費やす。その間の親の心がどういう状態にあるのか、私のような素人が詮索しても意味がないだろう。
 戦争に対してであれ、虐待に対してであれ、作家が果たせる役割は回りくどく、ささやかなものに過ぎない。人生の尊さを示すこと、ただそれだけなのだ。作家は人間が犠牲の心を持った存在であることを、何度でも書いてゆかなければならない。たとえ自分の発する言葉が相手に届かないと分かっていても、あきらめず、愚直に、同じことを繰り返さなければならない。


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 作家に対する一般的なイメージは、作品よりも職業が先に立つものだと思います。すなわち、人は作家になることを志望して作品を書き、それが世に認められれば作家となるのだという理解が一般的だと思います。しかしながら、私はいくつかの小説を通じて、時間を一点に凝縮した描写は現実の時間の限界を超え、現実と虚構との臨場感は逆転するものだと知りました。そして、その文字の並びの普遍性が作家個人の存在を忘れさせることを知り、入口が逆であることにも気が付きました。

 作家になりたいと言って作家を目指すのであれば、その先にあるものは職業であり、作品ではなくなります。これは作家に限ったことではありませんが、霞を食って生きることのできない経済社会においては、まずは職業に就くことが先決問題であり、自らが為すべき行為の必然性の側から仕事を捉えることは非常に困難であると感じます。反対側の入口を強制されているようにも思えます。

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