犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『魂とは何か』より

2011-12-14 00:12:16 | 読書感想文
p.241~ 「天才の生き方について」より

 「天才の型」というのを考えたことがある。モーツァルト・ランボー型と、ブラームス・ゲーテ型。かたや、華々しき才能を驚嘆されながら早々に散る型。かたや、円熟を迎えてなお精進に相努め、世の尊敬のうちに没。これに加えてもう1つ、自身の才能を自覚するゆえにその重さに耐えきれず、自ら死を選ぶ芥川龍之介型。

 我々凡人は、彼ら天才の内面で進行しているであろう緊密な質の持続を理解し得ず、外に表わされた作品のみに接して、それらを点と点でつなぎ、推測することができるだけだ。そしてまた我々は、彼らの内的必然性を理解し得ないために、多く、「幸・不幸」という尺度をもって、その人生を測ろうとする。おそらくこれが、凡人の凡人たるゆえんであり、またその限界でもあろう。彼ら自身にあって、彼らが彼らであるということと、幸・不幸ということとは、別のことではなかったろうか。

 天才に限ったことではないだろう。我々凡人においてもまた、為さなければならないことだけが、為さなければならないのではないか。おそらく、世の人は、為さなくてもいいことを為しすぎる。あるいは逆に、為さなければならないことを、為さなすぎる。凡庸とて、ひとつの宿命であろう。


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 天才とはどのような人かと問われて答えるのは難しいですが、一般的に、「斬新な着眼力や独創性を持った人物」との共通認識があるように思います。但し、それが「斬新でありたい」「独創的でありたい」との欲望の文脈で語られることはあっても、「意図せずに斬新であってしまう」「必然的な独創に苦しむ」との狂気の文脈で語られることは少ないように感じます。そして、そのこと自体が、天才と凡人の区別を可能にしていると思われます。

 私には、世間一般の評価とは次元を異にする場面において、天才としか思えない方々が何人かいます。その方々に自己顕示欲は皆無であり、幸福追求の価値を超越しており、しかもその状態が一生続くことが確実です。そして、その方々の境遇は、世間一般には「自分は同じ立場には立ちたくない」と思われているものです。他方で、「俺は天才だ」と自惚れている人は、私には凡人の俗物にしか見えません。

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