犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「3・生きがいを求める心 ―変化への欲求」より

2009-09-06 00:27:14 | 読書感想文
p.58~

生活を陳腐なものにする1つの強大な力はいわゆる習俗である。生活のしかた、ことばの使いかた、発想のしかたまでマスコミの力で画一化されつつある現代の文明社会では、皆が習俗に埋没し、流されて行くおそれが多分にある。かりに平和がつづき、オートメイションが発達し、休日がふえるならば、よほどの工夫をしないかぎり、「退屈病」が人類のなかにはびこるのではなかろうか。

しかし、ここでちょっとみかたをきりかえてみよう。変化や発展というものは、たえず旅行や探検に出たり、新しい流行を追ったりしなくてはえられないものであろうか。決してそうではない。ほんとうは、おどろきの材料は私たちの身近にみちみちている。少し心をしずめ、心の眼をくもらせている習俗や実利的配慮のちりを払いさえすれば、私たちをとりまく自然界も人間界も、たちまちその相貌を変え、めずらしいものをたくさんみせてくれる。自分や他人の心のなかにあるものもつきぬおもしろさのある風景を示してくれる。

わざわざ外面的に変化の多い生活を求めなくても、じっと眺める眼、こまかく感じとる心さえあれば、一生同じところで静かに暮らしていても、全然退屈しないでいられる。エミリー・ブロンテは一生ひとりで変化に乏しい生涯を送ったが、あの烈しい情熱と波瀾に富む『嵐ヶ丘』を創り上げる心の世界をもっていた。むしろ精神の世界が豊かで、そこでの活動が烈しいひとほど、外界での生活に大きな変化を求める欲求が乏しいとさえいえるかも知れない。


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これは昭和41年の文章ですが、まさに神谷氏が述べるとおり、その後の日本はマスコミの力による画一化が進み、戦争のない平和な時代が続き、パソコンや携帯電話などのITが発達し、週休二日制になって祝日も増えました。これは、先見の明や時代の先取りといった陳腐な捉え方では済まないように感じます。特にこのくだりは、変化や発展、流行について語っているため、そのこと自体を40年の時間の流れという側面で語ってしまえば、面白くも何ともないお説教で終わってしまうように思います。

変化や発展に関する現代の考え方と言えば、「自分を変える」ことと「社会を変える」ことに集約されています。そして、自分を変えるためには自己啓発が必要であり、社会を変えるためには政権交代が必要とされるようです。この両者に共通するのは、いずれにしても変化や発展は正義であり、善であり、幸福をもたらすものだという大前提を疑っていないところだと思います。そして、これは神谷氏の述べる「退屈病」がさらに進んだ状態であるとも感じます。変化や発展に強制的に追い立てられてしまえば、生きがいは見失われるという皮肉な結果なのだと思います。

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