犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

このブログの目的 もう一度

2008-01-03 22:39:29 | その他
私は大学院で、「被害者と法」というテーマを選択しておりました。被疑者・被告人の人権保障に比べて被害者の立場はあまりに弱く、近代の立憲主義そのものに根本的な疑問を感じていたからです。そして、大学院や刑事法の学会では、修復的司法の推進が主流になっており、多くの教授も学生も同じことを繰り返していました。「日本社会はようやく忘れていた被害者を思い出したのだ。それでも我が国の被害者支援は、欧米先進国に比べて、約20年も遅れている。一刻も早く追いつかなければならない」。私も他の同級生も、そのような希望を持って研究を進めておりました。そして、正しいことをやっているのだから、被害者や遺族から感謝の気持ちやほめられることあっても、決して非難されることはないだろうといった単純な自信を持っておりました。

ところが、細かい文献を調べて専門知識を仕入れるアカデミズムの実態に触れ、私は徐々に違和感を覚え始めました。忘れていた被害者を思い出したといっても、刑事法学会が自らの体系の維持に都合の良い形で被害者を思い出しているにすぎないのではないか。自分は専門家にありがちな偏狭な上から目線によって被害者を解釈し、無理に理論の枠に押し込めようとしていたのではないか。そして、ある同級生の一言が、私の違和感を決定的なものにしました。「これからは修復的司法の時代だ。まだ新しいテーマだから、理論も成熟していない。それだけに、一旗揚げるには非常に条件がそろっている。何か論文を書いて認められ、壮大な理論を構築して、この方面のパイオニアになれば、民法の我妻栄や刑法の団藤重光のように学会に名を残すことも可能だ」。私はその同級生を、心の底から下品だと思いました。

私は自らの心に問うてみました。私は今のところ犯罪被害者ではなく、幸いにも身内や友人に大きな犯罪被害に遭った人はおりません。そして、今後も私は絶対に通り魔などでは殺されたくありませんし、身内や友人にもそのような被害には絶対に遭ってほしくありません。これは紛れもない事実です。「あなたもいつ犯罪で命を落とすかわからないのですよ」といった言葉を聞けば、脅されているようで不愉快になります。これも偽らざる事実です。ここで私は、大きな問いにぶつかりました。いったい、被害者でない者が被害者の保護や救済や支援をすることは、論理的に可能なのか。理解して支援をするのならば、まずは共感しなければなりません。そのためには、自らも経験するのがベストです。そこまで行かなくても、少なくとも「経験したい」という意志がなければなりません。ところが、私も同級生も、誰も「経験したい」などという意志は微塵もありません。それどころか、犯罪被害は人生において最も避けたい事項です。私は自らの偽善に気づき、途方に暮れました。

私はとりあえず、暫定的で稚拙な答えを出して先に進みました。犯罪被害の経験がない者に、犯罪被害者の気持ちは絶対にわからない。「お気持ちはわかります」と言えば、これは完全に嘘になる。そうかといって、「お気持ちはわかりません」と言ってはならない。究極的にはわからないが、わかろうとしなければならない。その意味で、わからないことがわかっているし、わかっていることがわからない。これは逆説ではなかろうか。また、被害者でない者が被害者の支援をすることは、絶対的に偽善を含むものである以上、常にその偽善に苦しめる人にのみ被害者の支援ができるのだという結論にも至りました。これは、大学院の研究には反する結論でした。実証科学とは、自らの仮説を根拠とデータによって裏付けるという方法だからです。私は、自分が考えていることが、犯罪学や刑事政策学を超え、刑事訴訟法学も刑法学も超えてしまっていることを知りました。

大学院の同級生は、このような偽善性に苦しんでないないどころか、誰もそのような偽善性の存在自体に思いが至っていませんでした。アカデミズムからすれば、私の考えのほうが全く異常でした。私は自らの考えの一端を披露しては、意味がわからない、勉強不足だ、理解が足りないと言われました。しかし私には、専門用語と難解な理屈ばかりを切り回し、実際に多くの被害者の方々に受け入れられないような研究に一生を捧げる気はありませんでした。そこで、公式なレポートと並行して、自らの直感的な違和感を言語化する作業を始めました。その文章は、主張を根拠によって論証するという法律学の原則を全く逸脱しており、とても専門家からは評価される代物ではありませんでしたが、私にはそのような形式の文章しか書けませんでした。しかし、偽善性に全く苦しんでいない同級生よりも、偽善に苦しんでいる自分のほうがまだましだという信念はありました。たとえそれが同級生へのレッテル貼りであり、自己満足に過ぎないとしてもです。

私は学問的にも浅学である上に、その知識すらも利用せず、社会科学にとっては生命線である文献の調べ物もさぼっており、ここに書いている文章は学問の体をなしておりません。どうしても修復的司法への批判が多くなり、真摯に修復的司法を通して被害者支援をされている方に不愉快な思いをさせてしまっている点については、非常に心苦しく思います。私には何の野心もなく、学問的打算もなく、まだ表現の形式を求めてもがいている段階ですので、何とぞご容赦をいただきたく存じます。このブログに「犯罪被害者」の検索からいらして下さった方には、私の拙い文章のワンセンテンス・ワンフレーズから何かのヒントを得たり、何らかの考えるきっかけを得て頂ければ望外の喜びです。また、「法哲学」の検索でいらして下さった方には、世の中にはこんな変わった法哲学をしている人もいることを知って頂き、笑って頂ければ幸いです。

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