犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (2)

2013-12-31 18:28:00 | その他

 弱者の味方になるという絶対的正義は、いつの間にか「弱者を利用して正義を実現する」という転倒を起こします。抽象名詞の操作によって物理的な動きを生じさせたい人間にとって、この構造や欲望から逃れることは困難だと思います。これが、世の中に言うところの典型的な「正義の味方」です。そして、弁護士が行う従来の犯罪被害者支援には障害が多くなる理由も明らかだと思います。

 原発被害者支援の業務においては、「被害の甚大さと深刻さ」「お金を払っただけで終わらせない」「怒りや恨みは一生続く」といった言葉が多くの弁護士から語られ、全くその通りだと思わされました。同時に、当事者でない者がこれらの言葉を代弁する権利や資格の有無について、改めて考えさせられました。他者の身になる苦しみは、正義の側に立つことの気持ち良さに転化しがちだと思います。

 私がこの点に思い至ったのは、言うまでもなく、原発被害者支援に熱心な弁護士の多くは従来の犯罪被害者支援活動に意義を認めていないからです。原発被害においては、何よりも原発という絶対悪があり、脱原発という将来的な被害根絶の手段があり、東電という社会的権力および政府という公権力が存在します。そして、これらの絶対悪に立ち向かう者が正義でないことはあり得なくなります。

 原発被害と犯罪被害とを問わず、この世で「被害」と称されるものほど理不尽なことはありません。この不条理と絶望を純論理的に突き詰めれば、その先は精神の破壊に至るものと思います。ここでの最大の救いは、前向きな生き方の推奨でもなければ立ち直りへの支援でもなく、絶対悪の存在です。そして、これに対抗する怒りや憎しみ、恨みや悲しみは絶対善でなければ救いがありません。

(続きます。)

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