犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司・テリー伊藤著 『日本人の正体』

2008-01-06 01:18:11 | 読書感想文
契約社会であるアメリカには桁違いに多くの数の弁護士が存在し、契約条項を増やしている。これは、当人たちは言葉に忠実であると思っているが、言葉を増やすことは一種のインフレであって、言葉は軽くなっている(p.57)。日本も近年は似たようなことになっている。家庭裁判所では、民法770条1項5号の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」という条文の一言一句について議論が繰り広げられており、言葉が大切にされているように見える。しかし、そもそもそのような議論が必要なのは、「汝、健やかなるときも病めるときもこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り固く節操を守らんことを誓いますか?」「誓います」との言葉が軽くなっているからである。

言葉とは、「同じ」である(p.64)。言葉はそれによって指示されるものを意味し、指示されないものを示さず、同じものを「同じ」とし、違うものを「違う」とする。法律の条文は日常言語の多義性を排除して厳密に意味内容を確定しようとするが、そもそもその意味の源は、法律の力の及ぶところではない。「憲法9条」が日本に存在するように見えるのは、言葉それ自体の力である。100人の人間が六法全書を持っていて、それぞれの六法の憲法の項に「第9条」という文字が印刷されているが、それが憲法9条であるわけではない。もちろん、国立公文書館にある憲法原本の毛筆の文字でもない。憲法の原本が仮に消失しても、その瞬間に憲法がなくなるわけではない。これが言葉の力である。

養老氏は憲法9条の改正をすべきだと考えているが、これは政治的な意味ではなく、言葉という意味においてである(p.59)。憲法9条には「武力を永久に放棄する」と書かれているが、人間の作る文章の中に「永久に」という言葉を入れてはいけない。永久など、常識から見てデタラメにならざるを得ず、かえって言葉が安くなるからである。有限である人間が永久という時間軸を持ち込んでしまえば、人間は人間が作るものを改正することができなくなる。単なる決意の表明であると言うこともできるが、永久ではないのに永久であると嘘をついているのであるから、やはり言葉が安くなることが避けられない。

自分の命の大切さ、他人の命の大切さは、いかにすれば教育できるのか。それは、死とは何かを教えようとすることの中にしかない(p.188)。日頃から死を見つめておけば、結局のところ現世肯定をするしかないことに気付きやすい。死を見つめることによって、殺人や自殺といった行動を防止できることになる。これも逆説的な真実である。これに対して、現世否定の思想は、現状への不満や不幸の感情から生じてくる。これが高じると、極端な反体制の思想になってしまうのが良くあるパターンである。反体制の思想は、殺人事件の被害者や遺族に対して非常に冷たい。これは、日頃から死を見ないようにして、死とは何かを考えていないがゆえのニヒリズムである。

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