犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (1)

2012-12-31 00:03:05 | その他

 弁護士会からのDMやFAX、弁護士会の運営するメーリングリストにおいて、昨年は「被害者」の文字が従来の10倍は見られました。これは、「原発被害者相談」「原発被害者支援弁護団」などの事務連絡が連日行われていたためです。私は、今年はこの傾向がもっと顕著になるだろうと予想していました。震災そのものの風化が懸念される一方で、3月11日は「原発事故の日」となり、地震や津波によらない単独事故であるような扱われ方が増えるだろうと思われたからです。

 私は、このような傾向に心を痛めていました。それは、「被害者支援」「救済」「保護」という態度に付きまとう欺瞞性によるものでした。あの日のあの瞬間を境に住み慣れた家を突然追われ、人生が一変したことの呪詛や身を切るような絶望に対して、それ以外の者になし得ることは、畏敬の念を持ちつつ、寄り添って話を聞くことのみです。他方で、福島の被災者に憐憫の情を寄せることや、お金の支援のみを目的とすることは、不可避的に「支援してやる」との上から目線と、「感謝してほしい」との対価の要求を伴うことになるものと思われたからです。

 さらに、私が弁護士会による活動の傾向に対して心を痛めていたのは、それ以前の問題でした。すなわち、「福島県民の苦しみを知っていますか」「ノーモア・フクシマ」という定型句によって、福島県の方々は画一化されており、脱原発・原発ゼロの政治的主張と不可分一体になっていた点です。そこでは、福島県の方々と一緒になって東電に怒ること、原発政策を推進してきた政府に怒ること、さらには原発差し止め訴訟を却下してきた裁判所に対して怒ることが絶対的正義となっており、それ以外の正義はありませんでした。

 今年1年を振り返ってみて、私の予想はかなり外れました。原発被害者相談のやり取りは減り、DMやFAXの「被害者」の文字も昨年より減りました。代わりに入ってきたのが、計画が思い通りに行かないことに対する弁護士の焦りの声でした。福島県に赴いたある弁護士は、現地の方々から、「復興を妨げないでほしい」、「福島をフクシマと書くな」、「風評被害を拡大させないでほしい」、「福島を免罪符にするな」、「本当は支援など考えていないのではないか」、「電力不足で虐げられるのは弱者だ」などの厳しい苦情を浴びて帰ってきました。

 先般の衆議院議員選挙で、福島県では軒並み原発再稼働派の候補が圧勝したことも、被害者支援活動の意気消沈に拍車をかけたように見えます。「福島県民の苦しみを知っていますか」と言うならば、まず大事なことは何十年後の未来よりも今日の生活であり、現状の収拾であり、現在の苦しみからの脱却であり、補償・賠償・安全な住居の確保・経済的再生であり、目の前の消費税や社会保障の問題でした。そして、これらの要請は、脱原発の活動をしている弁護士の関心とは食い違っていました。このことも、支援活動の鈍りを招いた原因であるように感じられます。

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1 コメント

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no philosophy (noga)
2012-12-31 10:03:29
小異を捨てて、大同につく。
大同がなければ、小異にこだわるしかない。
小党の乱立、小粒な小人の争い。

あるべき姿は、非現実の内容。頭の中だけにある世界。
その内容を人々は求めているか、それとも無視しているか。
時制があれば、非現実 (未来と過去) はその存在を認められる。理解できる。
日本語脳のような時制の無い脳裏では、非現実の内容は現実の中の真っ赤なウソになる。

自分自身の世界観を持ち、日夜、それに近づくために努力している人は信頼できる人である。
辻褄が合えば、理論・理想となる。合わなければ、空論・空想となる。文章がなくては、辻褄を合わせることはできない。
かくして我が国は、子供にもわかるアニメ・漫画の国になった。
その内容を語る人は、つかみどころのない人間である。信なくば立たず。
場当たり的な発言を繰り返す日和見主義者には常に警戒が必要である。エンドレス

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