犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

門田隆将講演会 『光市母子殺人事件 ~法の限界を乗り越える~』 その2

2012-11-04 20:48:16 | その他

(中央大学白門祭の企画講演会です。門田氏の講演の内容と私の感想が混じっています。)

 本村洋氏が裁判制度の壁の前に絶望を深めていたその頃、私は裁判所の側の人間としてそのニュースを聞き、様々な感情を有しておりました。「遺影は妻と娘そのものであり、その妻と娘の生命と死が裁かれている場所に持って入れないのは筋が通らない」との本村氏の論理に対し、裁判所は同じ土俵に立って議論をすることができません。山口地裁の廷吏と本村氏との間では、「裁判所規則ではそのような荷物の持ち込みはできません。」「いいえ、荷物ではありません。妻と娘です。」との押し問答がなされたと聞きました。私はその時の自分の立場から、本村氏の実存的苦悩よりも、廷吏の心労の側への同情が上回っていました。

 木を鼻で括ったような山口地裁の廷吏の対応を批判するマスコミの論調に対し、私は「現場の苦労が全然わかっていない」と憤慨していたことを覚えています。仮にその廷吏が自分の判断で本村氏を法廷に通したならば、恐らく元少年の弁護団側から裁判官への懲戒請求ないし訴訟指揮への異議申立てがなされ、その時点の最高裁の通達に反して勝手な行動を取った廷吏の処分も避けられなかったものと思います。すなわち、懲戒免職にはならないまでも、譴責による自主退職に追い込まれるのはやむを得ないだろうと思います。マスコミの論調も、国家公務員の不祥事の文脈に乗ってしまえば、掌を返したように、廷吏の軽率さへの非難に向かっただろうと想像します。

 仮に廷吏が1人の人間として本村氏の人生を賭けた言葉を正面から受け止めてしまえば、国家公務員としての職務の遂行に支障を生じるものと思います。すなわち、自身の良心と公的な立場の間で引き裂かれるような者に対しては、「仕事をして給料をもらうことの意味を理解していない」「学生気分が抜けていない」「世の中の厳しさがわかっていない」との批判が妥当します。ここで人間が採り得る態度は、思考停止して上からの命令に従うだけです。私も似たような立場に置かれたとき、本村氏のような言葉を述べる被害者やその家族を、あえてクレーマーとして一括りにしました。そして、減点法で人事評価をされる現場の疲弊に飲み込まれることを防ぎ、私自身の精神の破滅を防ぎました。

 門田氏が述べるところの法の限界を乗り越えること、すなわち裁判所が哲学を取り戻すべき点については、かつての現場での気苦労が染みついている私にとっては、瞬間的な反発を覚えるところがあります。しかしながら、その反発の内実は、自分でもよくわかっています。すなわち、法律の仕事に携わる者は「法律とは何か」を考えてはならず、物事を我が身に置き換えて根本から考えてはならず、私もそれを誤魔化して働いていたということです。その上で、国家公務員が「全体の奉仕者」「公僕」であるという単語だけを引き寄せて正義を語り、公務員らしい公務員を演じていたのがかつての私です。私自身は、このような経験から「法の限界」というものを捉えています。

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