犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

若林一美著 『死別の悲しみを超えて』より

2011-04-25 23:41:45 | 読書感想文
p.150~

 大きな事故や事件の場合、マスコミが総動員で、目にみえない「掟」のようなものを作ってしまい、社会生活にもどる際のルールづくりのようなものにまで介入しようとしているような気がする。

 表現としては適切でないかもしれないが、社会は悲しい人、弱い人が好きではない。そのために悲しみを背負った人たちが社会にもどる時、それなりの気負いと、感情をおおいかくすための表情を身につけなければならないと感じるのだ。もう悲しくない、というふりをしたり、強がってみないと仲間はずれにされてしまうような気がしている人たちは多い。
 悲しみそのものは、その人の心のもちようによって変化するものではあるが、現在の社会では、その傷口は癒されるよりはむしろ、深く広くえぐられていくことが多い。愛する人を失った嘆きは、表面的な表われ方は変化していくにしても、終生消えることはない。さらにまた死の悲しみに苦しむ人とくらしを共にする子どもの世代にも、その悲しみはひきつがれていくのだ。

 死別に伴う嘆き(mourning)についての論文を、フロイトが発表したのは1917年だが、今日的な意味での悲嘆(grief)の研究の基礎になったもののひとつにリンデマンの調査がある。1942年、ボストンのレストランで大火災が発生し、400人もの生命が奪われた。当時、総合病院で働いていたリンデマンは、精神分析医として、被災者や遺族の治療に関わることになった。肉体的な傷は治っても、トラウマ(心の傷)が癒されず、自殺に至るケースもあった。
 大きな災害にあったにもかかわらず一命をとりとめた人は幸運であり、そのことを感謝しつつ日常を送れるだろうといった常識的な考え通りに、事は運ばぬことの方が多かった。事故は、遺族はもちろんのこと、事故現場にいて助かった人にも、大きな傷をのこした。「生命が助かったのだから」といった慰めでは納得できない、「自分が生きていることに対する罪意識」までも背負っていた。

 自分の感情を正直に表現することが大切なことであるにもかかわらず、人が思いきり悲しみを表わせる場は限られている。死別から時間が経てば、少しずつ悲しみは減っていくものなのかもしれないが、社会生活の中には悲しみを負った人の神経を逆なでするようなことが多々含まれている。
 人間関係の中で、傷が深まることもある。話し手が、その場しのぎの言葉を口にする時、それらすべてが、傷ついた人の心をさらに傷つけていく。傷を受けた人は、感性がとぎすまされている。そのため、何が語られたかではなく、その人は何を伝えたかったかが心に響いてしまうのだ。表面的には慰めや励ましのようであっても、結局「悲しんでいる人を見たくない」というメッセージがたとえ言外であれ伝えられる時、彼らは口を閉じるしかないのだ。


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 人間の社会生活は、物事に目的を求め、意味を求め、幸福を求め、問題の具体的な解決策を探る過程であると思います。そこでは、時間は数直線の上を移動する実体的な存在であり、その実体の上に無数の人間が載っており、「あなたもその1人である」という思考が前提とされています。ここで生じる食い違いとは、人間の時間性に関する捉え方の差異に端を発するものであり、やはり経験に基づく洞察の深浅の差に集約されるのだと思います。
 
(1)人は過去を後悔しても過去には戻れない、(2)人は過去を変えることはできないが未来は変えることができる、(3)人は前を向いて生きているしかない、といった命題は、人間と時間に関する動かぬ客観的事実を語っているように見えます。しかしながら、(1)すべての現在はすべての過去を含んでいる、(2)すべての未来は現在になりすべての現在は過去になる、(3)人は生きている限り1秒1秒死に近づいている、といった命題も、同じく動かぬ真実を語っています。真実のうちにも、人前では言ってよいものと言ってはならないものが分けられているように思います。

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