犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

遠藤周作著 『海と毒薬』

2011-05-29 22:33:54 | 読書感想文
p.114~
 はっきり言えば、ぼくは他人の苦痛やその死にたいしても平気なのだ。医学生としての数年間、ぼくは多くの病人が苦しんでいる生活の中で暮してきた。彼等が死ぬのも数多く見てきた。時には手術で患者を殺してしまう場面にもたち会ってきた。それらの1つ、1つにこちらまで頭をかかえるわけにはいかないのだ。
 「先生。お願いです。麻酔をうってやってつかあさい」。肺手術後の患者が呻きつづけ、それを聞くに耐えられなくなった家族が泣くように頼んでも、ぼくは冷たく首をふることができる。「麻酔はこれ以上うつと、かえって危険ですよ」。だがぼくは内心ではそうした患者や家族の我儘をうるさい、としか思っていないのだ。
 病室で誰かが死ぬ。親や姉妹が泣いている。ぼくは彼等の前で気の毒そうな表情をする。けれども一歩、廊下に出た時、その光景はもう心にはない。こうした、病院での生活、医学生としての日常はいつかぼくにあの他人にたいする憐憫や同情の感覚を磨り減らせていったようである。

p.134~
 血圧計をながめながら戸田はふしぎな気持ちに捉われていった。(ほら、今、俺が血圧計をのぞいたんや。首を動かした。これが人間を殺している俺の姿や。この姿が1つ、1つフィルムの中にはっきりと撮られていく。これが殺人の姿なんかな。だが、後になってその映画を見せられたとき、別に大した感動が起きるやろか。)
 言いようのない幻滅とけだるさとを戸田は感じた。昨日まで彼がこの瞬間に期待していたものは、もっと生々しい恐怖、心の痛み、烈しい自責だった。だが床を流れる水の音、パチ、パチと弾く電気メスの響き、それらは鈍く、単調で、妙に物憂い。それどころか、何時もの手術とはちがって患者のショック死や急激な脈や呼吸の変化を怖れるあの張りつめた緊迫感が今この手術室のどこにもなかった。

p.164~ 平野謙氏の解説
 異常な状況にあっては、人間は平気(?)で異常な事件に身をゆだねるものらしい。しかし、異常時における異常事件の限界をみきわめるためにも、異常のなかの平常を探求しようとしたこの作者のような制作態度は、やはり注目すべきものと思える。そこにこの長篇のまぎれもない存在理由がある。


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 久しぶりにこの本を読み返してみたくなりました。最初に読んだときには、人生経験の乏しさからテーマが上手くつかめず、読後感が悪かったのですが、今回も別の意味で読後感の悪さが残りました。それは、私が何件かの医療過誤裁判を経験するうちに、様々な組織の内部構造を知ることになり、仁義なき修羅場ではヒューマニズムも人命尊重第一主義も役に立たず、挫折感に打ちのめされてきたことに原因があるようです。

 生体解剖は故意犯(殺人罪)であり、過失犯である医療事故(業務上過失致死罪)とは全く異なります。しかし、遠藤氏が追求を重ねて問いの周囲を回り続けているのは、このような法的な故意犯と過失犯の差を超えて、法の与える罰は本質的なものではないという点にあるように思います。人は、自らに心の痛みや自責の念が起こらないことに気付いたとき、その気付いた事実において、答えを先取りしているということです。

 「医師は患者の命を救おうと思って一生懸命にやっているのであり、殺そうと思っているわけではない」という不当感の強さが、カルテの書き換えや虚偽の証言の強要をもたらすとき、故意と過失の境界は曖昧になり、善と悪の問題は混沌としてきます。もちろん、この問題は医師や病院に限らず、あらゆる職種や組織において同じことですが、人の生と死が直接に問題となる場面で最も先鋭化するように思います。

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