犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

自粛ムード

2011-04-03 23:44:25 | 言語・論理・構造
 東日本大震災の後、「自粛ムード」という言葉が独り歩きして、経済活動に支障が生じているとの意見をよく聞きます。私も被災地以外に生きる者として、そのように一般的に言われているのと別の意味で、そのように思います。

 自粛の是非に関する議論の中で、外国語には「自粛」に相当する単語が存在しないとの識者の指摘を聞きました。私は単語の語源を探究する方面には疎く、興味もありませんが、「自」という文字に「みずから」と「おのずから」という正反対の意味を含めていることについては、非常に引きつけられるものがあります。言葉よりも先に意味があり、その言われているところの「それ」を言葉にした場合、「みずから」と「おのずから」という正反対の意味は同じ単語で言い表され、今日まで使われてきたということだからです。
 「自」という文字が含まれる熟語の多くは、「みずから」の意味のみに用いられているように思います。「自覚」「自信」「自己主張」などです。他方、「みずから」と「おのずから」の両方が混じっている熟語もあり、こちらのほうが意味に深みがあるように感じられます。「自由」「自分」「自身」などです。但し、現在では「みずから」の意味のみが認識され、言葉が軽くなっていると感じます。

 「自粛」という単語も、まさに「みずから」と「おのずから」が混じっている深い意味の単語だと思います。そして、現在では「みずから」の意味のみが認識され、言葉が軽くなっているようです。特に「自粛ムード」という言い回しは、「おのずから」の意味からは出て来ないはずだと思います。
 自粛ムードと言われるときの「自粛」とは、外からの強制力によって不自由を感じ、内心では不平不満を感じながらも空気を読んでいる状態だと思います。不謹慎だとの非難を浴びないため、周囲の顔色を窺い、無理に本音を抑えるという行動です。これは、「自由」という言葉の意味の捉え方と対応しているように思います。すなわち、権力からの自由という意味において「自由」を捉えれば、それは「みずから」の意味しか持たなくなり、「自粛」についても「暗黙の強制的ルール」という負の意味しか持たなくなるからです。

 本来、「おのずから」の意味を含む自粛とは、強制ではなく欲求であるはずだと思います。例えば、ニュースを通じて避難所を歩き回って肉親の安否を探る人々の顔を見たとき、自宅があった場所に呆然と立ち尽くす人の顔を見たとき、津波で両親を失った幼い子どもの顔を見たとき、がれきの周りで自衛隊の救出活動を見守るしかない人の顔を見たとき、私は被災地以外から何かを語ること自体が、何か分を越えたこと、分を過ぎたことをしているような気になります。この瞬間の気持ちは、決して遠慮や罪悪感などではなく、厳粛かつ粛然とした気持ちであり、「自粛」という単語が生み出された契機に立ち会っているような感じがします。
 震災後の「自粛ムード」が経済活動を停滞させることは、全くその通りだと思います。消費経済は、安い物では満足できず高い物が欲しくなる、古い物では満足できずに新しい物が欲しくなるという人間の欲望の発現において回るものだからです。これに対して、被災地で肉親が行方不明となり、「必ず生きている」という希望を持って避難所を探し回っても見つからず、「とにかく会いたい」という絶望の中で遺体安置所を探し回ることを強いられる人間の行為は、いかなる意味でも経済活動には結びつかないのだと感じます。

 被災地以外で従来通り生きる者は、「自粛」をムードとして感じる限り、いつまで自粛しなければならないのか、イライラせざるを得ないと思います。そして、被災地の人々から「私達も過度の自粛は望んでいない」との声が出れば、これにすぐに飛びつき、安心するのだと思います。

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