犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

杉原美津子著 『ふたたび、生きて、愛して、考えたこと』

2011-02-18 00:07:45 | 読書感想文
p.19~
 私は年月が経過していくにつれて、身体は「病人」の身から日常の生活ができるまでに少しずつ回復していったものの、心は身体の回復に追いついていくことができなかった。人といても街のにぎわいの中に身を置いていても、人々の姿も街の風景もあの日の噴き上がった炎の記憶に隔てられ、私には幻のようにしか感じられない。夢の中で、あの夜と同じオレンジ色の炎が、いつまで経っても私を追いかけてくる。
 その熱傷の傷跡の醜さに、私はいつまでもこだわった。そのことが哀しく歯がゆく恥ずかしく悔しかった。
 「もう、いい加減、卒業してもいいだろう」。ある日返ってきた、荘六(夫)の、ものともしない言葉に肩透かしを食らい、私はバランスを失った。もう、いい加減、卒業してもいいだろう……。それは、焼けた皮膚が人目につくことをびくびくと気にしている私に、そんなもの払いのけてしまえと言ってくれた、力強いエールだったのだろう。だがそのエールが私には、荘六からも見放されたような、残酷な言葉に響いた。

p.97~
 「自分の言葉」というものは、体験が血肉となって熟成し、こころの中から醸成されて生まれてくる。その確かな「自分の言葉」が迸り出てきた時、「いかに生きるべきか」という問いに、「こうありたい」という明確な自分の答えを出すことができる。そのためには、五感を研ぎ澄ませ、自分の感性でさまざまな体験を貪欲に咀嚼していかなければならない。
 振り返れば私は幾度となく、過酷な場面に立たされてきたかもしれないが、その体験を通して五感を磨き、選ぶべきものを選ぶことを、試され教えられてきたように思う。その牽引役をしたのが、良くも悪くも荘六だったかもしれない。

p.148~
 いかに生きるべきか。その自問自答が、人間に与えられた一生の仕事だと思う。人間に平等に必要不可欠に授けられたものは、「生きること」と「愛すること」と「死ぬこと」だと思う。この3つが繋がって、「いかに生きるべきか」の問いに答えてくれる。

p.151~
 死という、そのデッドラインまでのラストスパートの距離がわからない。だがその最期の時まで、習作を重ねてきた原稿を推敲するようにして生き、いらない言葉を削ぎ落とすようにして死んでいきたい。


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 法律の理論に携わる者にとっても、法律の実務に携わる者にとっても、犯罪被害者のその後の人生を追うことは、その職務の範囲ではありません。事件の名前だけが講学上必要な範囲で引用されるのみです。刑事政策学においても、例えば「三菱重工ビル爆破事件」は犯罪被害者等給付金支給法の制定の契機として、「新宿西口バス放火事件」は保安処分の導入の是非が激しく争われた契機として、文献に名が残っています。

 刑事裁判は被害者の感情を噴出させる場ではないとの専門家の論理は、他方で人間的な動機も伴っています。それは、法律の理論に携わる者においては、判例の射程に関する学問的な興味となって現れます。地裁の判例が過去の最高裁判例の射程を超えれば、当事者の裁判の負担など関係なく、専門家は控訴・上告を望みます。他方、法律の実務に携わる者は、画期的な判決を獲得することへの欲望から逃れることはできません。将来的に同じ事件が起きたときに救済がなされれば、それは自身の功績であるということです。

 これらの犯罪被害に関する法律の客観的な論理は、実際に犯罪被害に遭った杉原氏の主観的な言葉の前では、その深さにおいて勝負にならないと感じます。人間に平等に必要不可欠に授けられたものの1つに「死ぬこと」があり、その最期の時を前にしていらない言葉を削ぎ落とすならば、人は自身の死後の判例変更を目にすることもできず、死後の画期的な判決を読むこともできないと気付くからです。

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