犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

古処誠二著 『分岐点』

2011-02-15 00:02:39 | 読書感想文
p.306~

 考え、そして知る努力を放棄するなら、人は獣に落ちぶれる。与えられたものだけ吸収するなら家畜と同じだ。
 片桐さんは言っていたよ。何を考えても無駄、それが現地の兵隊だったと。自分で考えて行動する余地などなかった。下された命令を遂行しなければ生きていけなかったと。今となれば、それは僕にも分かる。内地も同じだったからね。納得の努力など無意味だったし、むしろ足枷となるばかりだった。

 片桐さんはこうも言っていた。あの伍長たちと自分に違いはないと。ただ何を知り何を知らずにいたかの違いでしかないと。
 だから僕は尋ねてみた。もし片桐さんがもう少し早く生まれていて、兵として大陸に送られていたら、あの伍長たちと同じ事をしていましたかと。匪賊討伐の名目で上官が蛮行を黙認する馬鹿だったなら同じ事をしていましたかと。片桐さんはうなずいたよ。自分はやらなかったと言う資格も自信もないと答えた。

 君はどう思う。もし片桐さんの言う通りなら、僕らはしょせんお釈迦様の手のひらで藻掻いているだけだということになる。今は、お釈迦様がアメリカに変わったというだけのことになる。事実、新聞も教師も手のひらを返したそうだね。アメリカは良い国だって連呼し始めたと聞いたよ。
 まるで命令に盲従する兵隊だね。戦争中とまったく同じだよ。お釈迦様に合わせて言動を変える連中は、ものを考える力がない家畜だと自分で証明してみせているだけだ。そんな連中の言うことなど聞いても意味がない。僕は家畜じゃない。宦官の弁に耳を傾けるつもりはない。自分でやったことの是非くらい自分で判断する。


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 現在の労働環境(低賃金・長時間労働・リストラ・過労死など)を軍隊になぞらえている文章を読み、深く納得したことがあります。「自分の頭で考えろ」と言うのは簡単です。そして、経済社会において価値のある考えは、利益を生み出すことのできるもののみであり、それ以外は無用の考えです。儲けに結びつかないならば何を考えても無駄であり、自分で考えて行動する余地はなく、下された命令を遂行しなければ生きていけない点において、人間社会の行われていることはどの時代も変わらないと思います。

 人が人である理由は、「自分の頭で考える」ことができる点にある以上、他人の頭で考えたことに従って行動することを強いられるならば、それは人が人であることの否定です。しかしながら、死なないで生きるためには生活の糧を得る必要があり、その場面においては「自分の頭で考える」ことが足枷となります。権力を持つ者の下で捨て駒にならざるを得ないということです。ここでは、人の「自分の頭で考える」能力が精神を病む原因となり、人を死へと追いやることとなります。この点においても、現代の労働環境と軍隊とは似ていると感じます。

 過労死や過労自殺の労働裁判においては、社員が「自分の頭で考える」ことができる立場にあったか否かが非常に大きいと感じます。自分で段取りをし、決定権を有し、裁量権を与えられているかという点が、人間の精神状態の根本の部分を左右しています。しかし、これは客観的な数値として表すことが難しく、しかも証拠で事実を立証するというシステムに合いません。そのため、労働時間の長短や賃金額の高低の問題に取って代わられます。労働問題に取り組む弁護士の多くは、戦争については憲法9条をスタートラインとしているので、問題の形が決まってしまっているようにも思います。

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