犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

倉橋由美子著 『大人のための残酷童話』

2011-12-01 23:50:20 | 読書感想文
p.221~「あとがき」より

 チェスタトンの言葉を借りるなら、お伽噺こそ完全に理屈に合ったもので、空想ではない、そしてお伽噺に比べれば、ほかの一切のものこそ空想的である、ということになります。お伽噺の世界は残酷なものです。因果応報、勧善懲悪、あるいは自業自得の原理が支配しています。子供がお伽噺に惹かれるのも、この白日の光を浴びて進行していく残酷な世界の輪郭があくまで明確で、精神に焼き鏝を当てるような効果を発揮するからです。

 しかしそういう古いお伽噺を子供が読むことはだんだん少なくなりました。代わって大人たちが子供に読ませたがるのは新作の童話、あるいは「児童文学」といういかがわしい読物で、これは主人公に子供が出てきたり動物が出てきたりはしますが、チェスタトンの言うリアリズム小説を、大人が子供を演じながら書いたもので、そこにはお伽噺とは正反対の世界があります。

 子供っぽい稚拙な文章でくどい描写が続き(ここのところはリアリズムです)、全体はとりとめもなくもやもやした空想の産物になっていて、まるで長い悪夢さながらに退屈です。要するにこれは現代風のつまらない小説の児童版であるわけです。


p.230~ 島田雅彦氏の解説より

 大人は、子どものように即物的に世界に感応する代わりに、世界観を持つ。世界を抽象化する論理や関係を見いだそうとする。その方法の違いのことを人は個性と呼ぶ。世界を抽象化できない子どもには、大した個性はないのである。それは子どもの自我が未熟というのと同じだ。

 しかし、自我の目覚めとともに、世界との戦いが始まる。自分はこうありたいという願望と自分を取り囲む外部の現実は不幸にもそっぽを向き合い、どうやら自分は世界に必要とされていないと思い悩む。その時から、私たちは世界に妥協し、折り合いを求めてゆく。少しでも世界が自分にとって居心地がよくなるように、様々な悪知恵を働かせるようになる。

 世界を変えるなんて所詮は夢だ。それならば、夢の中で世界を変えてやろう、とするだろう。自分がヒーロー、ヒロインになれるような世界を創造してやるのだ。しかし、その世界は何とちっぽけで、何と退屈であろうか? 敵もいなければ、他人もいない。従って恐怖も謎も存在しない。そんな夢の世界は泡の如く消えてなくなり、目の前にはうんざりする現実が横たわっている。現実がちっぽけな自我を飲み込むのである。

 そして、大人になる。自我は現実に敗北する、と相場は決まっているが、負けを重ねて狡知を磨くものだ。いわゆる教訓を身につけ、世界の掟や仕組みを知り、理解に応じて解釈を行い、自分の役割や居場所をその都度、決めてゆく。そして、いつの間にか、世界と敵対していた自我は、現実の残酷と退屈に加担しているのである。


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 架空の人物と実在の人物とを比較し、そこでは他者として同じような対象化が行われていることに気付いた場合、そこには独我論の問題を解く鍵があるように思います。他人の心の中はどう頑張っても見えないにもかかわらず、この世の中には自分と同じような人間が人間の数だけ存在していることを無意識に受け入れているならば、人間はこの問題について何らかの形で解答を与えているはずです。

 人間の集まりを社会と呼び、時代ごとの特質を論じるならば、「お伽噺が読まれなくなった社会」における独我論の問題への解答は、質の悪いものにならざるを得ないと思います。架空の人物が実在の人物に近づいてしまえば、「他人も自分と同じような人間である」という命題と「他人と自分は同じ人間ではない」という命題との均衡の取り方を学ぶ機会が減ってしまうからです。

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