犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

森達也著 『死刑』 第6章 償えない罪

2008-07-09 21:09:41 | 読書感想文
★ ノンフィクション作家・藤井誠二氏の言葉より

p.270
廃止派の人はよく、犯人を死刑にしても被害者は何も癒されないという言い方をしますよね。それは僕もよくわかっているつもりです。でも死刑になった場合とならなかった場合とでは、遺族の中に大きな感情の開きがあるんです。遺族はこれからも生きていかなくちゃならない。仮に死刑判決が出なかった場合、死刑の下は無期だから、だいたい25年くらいで社会に出てきます。少年の場合はとりあえず7年で仮釈放が与えられる。いつ社会に出てくるかわからない。家族を殺された遺族にしてみれば、加害者が社会に出てくることに物理的な恐怖感がまずあるんです。

p.273
本村洋さんは、早く加害者を世へ出してくれ、自分が殺しに行くからってことを、おそらく被害者遺族として初めてメディアでああいうふうに言ったんですね。遺族の人ってみんな、ああいう気持ちを持つ。それは当たり前のことなんだけど、それを怖くて言えない部分があるんですよ。本村さんはそれを言って、世論の後押しもありメディアがわっと取り上げた。これも遺族をめぐる誤解のひとつでもあるんだけど、みんな本当に感情を抑えています。なるべく社会に受け入れられやすいように慎重にものを言っている。

p.273~4
死刑は反対だけど、もし自分の家族が殺されたら国の代わりに自分で殺すって言う人ってよくいますよね。でもね、絶対無理だと思う。被害者が加害者を殺した例を僕は知りません。被害者遺族で、こっそりナイフを法廷に持っていった人を僕は何人か知っています。一応ガードしてる職員がいるけど、物理的にはあんなの全然関係なく実行できるはずです。でも殺せない。結局は、ナイフに触わることもできなかったって、みんな言います。人間的にもシステム的にも、個人で復讐なんて絶対にできない。人を殺すって、復讐するって、それほど恐ろしいことなんです。


★ 全国犯罪被害者の会(あすの会)幹事・松村恒夫氏の言葉より

p.292
量刑としては3人殺さなければ死刑にならないと言われていますね。けれど、人を殺すってそういうことじゃないんです。殺害されたのはひとりでも、殺しているのはひとりじゃない。実際に春奈の場合でも、何千人ものご先祖様がいて、やっと生まれたひとりなんだよね。春奈がご先祖様になって、また子供が生まれて何千人になったかもしれない。ひとりではない。みんな被害者なんです。だからひとり殺したから懲役15年だという問題じゃない。

p.295~6
うちの会で動いている幹事のほとんどは、自分の事件は終わっています。だから自分には何も返ってこないけれども、犠牲者となった奥さんなり子供なりと天国で会ったときに、よくやったねと言われることだけを信じてやっています。あとは今後、万が一被害者になった人の迷惑にならないように、助けになるようにとのことだけですから。本当ならば死刑という制度を使わないで済む社会になればいちばんいい。でも、法治国家である以上は執行すべきです。(本当の率直な気持ちは)春奈を返してくださいということです。

p.297
(加害者が更生しようが)関係ない。全然関係ない。よく生きて償うっていうじゃないですか。何するのよ。どうやって償えるの。償うっていうことは殺した人を生き返らせることなんだよね。それができるなら初めて生きて償うって言えると思う。それ以外、生きて償うということはありえないと思いますよ。


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洗練された思考は、穏やかな口調によって、反対論の論拠もすべて飲み込んだ上での逡巡と自問自答とを行間から示す。自ら犯罪被害を体験していない藤井氏の言葉は、体験者に無限に寄り添うことによって、普遍的な思想に昇華している。他方、自ら犯罪被害を体験した松村氏の言葉は、個人を離れて誰にでも通用する考えを見出そうとすることによって、普遍的な思想に昇華している。

全国犯罪被害者の会(あすの会)が、朝日新聞の素粒子の「死に神」報道に再質問をしたことについて、単なるクレーマーであると捉える向きもある。そこに示されているのは、行間の深さを読み取れるか否か、それを聞く側の実力である。

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