犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

修復的司法の問題点 その2

2008-07-07 23:18:14 | 時間・生死・人生
修復的司法の最大の問題点は、家族を突然亡くした人の抑え難い心の動きを抑え込もうとすることである。すなわち、「もう一度だけでも会いたい」という否定できない直観を否定しようとすることである。これは、自然の摂理に対してマイナスの評価を下すものである。修復的司法の考え方を貫徹する限り、遺された家族が「もう一度だけでも会いたい」と思い続けている限り、修復は完了しない。そして、そのような思いを抱いている限り、家族は立ち直っていないし、幸福になることができない。ゆえに、このような怒りと恨みからの解放が求められることになる。

「もう一度会いたい」という家族の意志に対して「被害感情」という名称を付することは、それ自体が一定の視角の採り方である。すなわち、そのような意志そのものの内容に入ることなく、その形式だけを取り上げている。言い換えれば、「会えないにもかかわらず遺族は『もう一度会いたい』と言っていること」を感情として観察している。このような問題からの回避は、一つの恐れの表われである。家族が死者に「もう一度会いたい」と思うことは、犯罪による死だけではなく、災害や病気による急死においても同様であり、人間の普遍的な心の動きである。犯罪被害による死も、この論理の形式に逆らうことはできない。従って、犯人に対する厳罰の要求はとりあえずカッコに入れて、まずは人間の抑え難い心の動きを正面から見据える必要がある。

客観的物理的世界を前提とする限り、死者は帰らない。従って、家族が「せめてもう一度だけでも会いたい」と言っても、死者に会えるわけがなく、そのような要求は非現実的な感情だとの評価が下される。しかし、そんなことは言われなくてもわかっている。問題は、さらにその先である。通常の意味では会えないことがわかっているにもかかわらず、なお会いたいとの心の動きが抑えがたく湧き上がってくること、これが人間の心の動きの中核である。そして、これは紛れもない現実である。「会いたくないと思っている」と言えば嘘になり、「会いたいと思っている」と言えば本当になるからである。これ以外の現実がどこにあるのか。逆説的な論理の字面だけを追っても仕方がない道理である。「もう一度だけでも会いたい」という直観は、人間存在の論理の要請であり、これを抑えるのは不自然である。

犯罪による死の場合は、天災や病気による死と異なり、その論理の要請が犯人に対する厳罰の要求に結びつく。「もう一度会いたい」ならば、それは会えなくなった原因を作った人間への怒りとなり、従って厳罰を求めるのも当然の論理の流れだからである。修復的司法は、「犯人を厳罰に処したところで遺族は救われるのでしょうか」、「いつまでも犯人を恨み続けて幸福になれるのでしょうか」などの問いを好むが、これは誘導尋問である上に視角が鈍い。遺された家族が犯人を恨まざるを得ないのは、その犯人によって愛する家族と会えなくなったからである。そして「せめて最後にもう一度だけでも会いたい」という心の動きは、人間が人間である限り否定することができないからである。

実証科学は、証拠によって証明できないものを扱うことができない。従って、「もう一度だけでも会いたい」という意志を正面から受け止めることができず、その意志そのものを客体化し、「被害感情」「厳罰感情」などと名付けた。これではピントがずれるのも当然である。「もう一度会いたい」という直観は、犯罪被害による死の場合、それは犯人への怒りや恨みと表裏一体である。そして、その表裏一体性をもたらしたのは、被害者の家族ではなく、犯人の側である。この論理の形式が人間存在において成立している限り、遺された家族が怒りと恨みから解放されることが幸福をもたらすとの主張は説得力を持たない。解放されてしまえば、「せめてもう一度だけでも会いたい」という最後の願いを断念したことになるからである。

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