犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『壊れる日本人』 その1

2008-12-03 21:50:21 | 読書感想文
近代合理主義は、すべてを因果関係で割り切らなければ気が済まない。そこで、凶悪事件の発生に直面して、残虐なゲームや児童ポルノを規制しようとする動きが出ると、必ず「科学的な因果関係がない」との反論が出てくる。しかしながら、この種の因果関係は、そもそも証明するのが困難な種類のものである(p.19)。薬物の有効性を調べるのであれば、治験薬によって実証的に分析をすることも可能である。しかしながら、数年間にわたって残虐なゲームや児童ポルノを見せ続けたグループと全く見せなかったグループに分けて、人格の歪みを観察して論文を学会に出せというのは、人体実験に等しい(p.22)。科学的な証明が必要であるという形式論を押し進めると、現実の話としては滅茶苦茶になる。

法治国家は、人間は欲深い生き物であるという性悪説を前提としている。そして、行政法規による様々な基準は、このような思想に基づいて、あくまでも最低限の目安を示したものである(p.89)。従って、法律とは守らなければならないもの、人間の自由を束縛するものとして存在することになる。資本主義の論理において、企業は単なる目安を十分条件化して、コストを安く抑えようとする(p.94)。すなわち、費用対効果、投資効率を少しでも大きくするために、企業は防災対策については法規ギリギリの線を歩く。その結果として、様々な人災が起きる(p.90)。これは、法律によってもたらされた安全基準の意味の逆転である。さらには、人間の注意散漫によって引き起こされるミスではなく、細かいマニュアルを誠実に遂行しすぎた結果としてのミスも生じている。これも、安全管理のシステムの確立による皮肉な逆効果である(p.138)。

人間の生き方や人間関係は、科学や論理だけで埋め尽くせるほど明解なものではない。しかし、現代の科学主義、合理主義は、それを客観的に割り切ろうとする(p.136)。その結果としてもたらされたのが、専門的職業人による二元論的な黒か白かの割り切りであり、「規則はこうなっている」と論じて終わりにするという思考方法である(p.113)。行政機関は、過失責任を問われて損害賠償請求を受けることを極度に嫌うようになり、法令の施行規則やガイドラインは、公務員が責任を負わなくて済むようにするための線引きが目的となる。これは、住民における権利意識の高まりと共犯関係にある(p.103)。その結果として警察官は、法律を見て人間を見ず、「事件にならないと動けない」という理屈に安住するようになる。平成11年10月の桶川ストーカー殺人事件、同年12月の栃木リンチ殺人事件においては、この法治国家の本末転倒が浮き彫りとなった(p.100)。

死を前にしたがん患者や難病患者などが発する言葉は、聞く者が頭でわかるというレベルを超えて、全身が揺さぶられる感じとともに腹の奥底まで落ちる(p.148)。言葉が薄っぺらになっている現代において、生命の息づかいを映した言葉に出会えるのは、このような闘病記などに限られてきている(p.168)。近代の科学主義は、すべてを論理と証拠によって実証し、再現実験によって真実であるかを確認し、因果関係で説明できない偶然を排除してきた(p.181)。すなわち、自己と他者を切断して、何事も客観的な対象として見ようと努めてきた。そして、感情的にならずに論理的に考えろと喧伝されてきた。これは、文字通りの他人事、ひとごとである(p.180)。多くの人間が気づいている現代社会の病理は、この辺りにある。自分を除いて客観的に物事を見ている限り、他者への共感はできない。共感とは、涙を流して他者の人生を全身で受け止めることである(p.149)。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。