犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者国選弁護制度

2008-12-01 22:04:06 | 実存・心理・宗教
本日より、被害者参加制度が施行され、同時に被害者参加人のための国選弁護制度も施行されることになった。これは、一定の犯罪の被害者等であって、かつ資力の乏しい被害者参加人を対象に、参加について援助を行う弁護士(被害者参加弁護士)の費用を国が負担する制度である。被害者参加弁護士となることを希望する弁護士は、各弁護士会に申込書と届出依頼書を提出し、弁護士会から日本司法支援センター(愛称「法テラス」。独立行政法人に準ずる法人)への申し込みがなされ、そこで正式に選任されることになる。これは、被疑者・被告人の国選弁護人、少年事件の国選付添人の選任と同じシステムである。この新制度は、弁護士会の犯罪被害者側への施策が口先だけでなく実質的に始まったというに止まらず、今日まで被害者が見落とされてきた構造を明らかにする意味も有している。

日々の裁判の現場を動かしているのは、抽象的なイデオロギーではなく目の前の経済である。これまで被害者の存在が軽視されてきた大きな原因は、刑事裁判の被害者は弁護士の顧客(クライアント)ではないというシステム上の問題にあった。被害者は民事裁判の原告となることによって、初めて弁護士の顧客となり得るのであって、多くの被害者は近代司法システムの中に入れなかった。他方で、被疑者・被告人の国選弁護の仕事は、弁護士にとって比較的安定した収入源とされてきた。月に7万円~10万円の弁護士会費、月に20万円以上の事務所のテナント料の支払いに追われる中で、弁護士が預かり金に手を付けて懲戒処分を受けるパターンも多い。ここで、月に1件でも国選弁護事件をこなせば、確実に国から約13万円が支給される。かくして、被疑者・被告人の存在は、弁護士の仕事にとって欠かせないものとされてきた。

商売人や自営業者にとって、お客様は神様である。凶悪犯罪者であろうと誰であろうと、神様は神様である。従って、どんな理由があろうとも、弁護士は犯罪者を弁護する。これは、あらゆる仕事に共通する対価の問題である。ゆえに、弁護士が逆に被害者側から民事裁判の依頼を受けたときには、スイッチが入れ替わったように犯罪者を激しく攻撃する。顧客の代理人として最善を尽くす義務を負い、それに基づいて報酬を得ている以上、状況が変われば手のひらを返したように相手方を攻めまくる。すべては依頼者の利益のためであり、それが仕事というものだからである。検察官を辞めて弁護士になった人(いわゆる「ヤメ検」)が、まるで人が変わったかのように国家権力を攻撃する変わり身の早さも、一般の企業間の転職を考えてみれば、さほど不思議なことではない。抽象的なイデオロギーはともかく、まずは飯の種を確保しなければ目の前の生活ができないからである。

サービス業(第3次産業)は、形のないものを売る仕事であるが、どんなに形のないものも、形があるようにすれば売れるようになる。これまで形になっていなかった被害者国選弁護制度が形になったことにより、刑事裁判の被害者は弁護士の顧客となる。これが新制度の意義である。被告人側の国選弁護人が軽い刑を求めてなりふり構わず必死になるように、被害者側の国選弁護人は重い刑を求めてなりふり構わず必死になる。これが弁護士の職務倫理であり、仕事をする者として当たり前の義務である。そして実際のところ、被害者に対する弁護活動は、被告人に対する弁護活動に比べて遥かにやりやすいはずである。それは、「罪を犯したのだから罰せられなければならない」という論理は順接であるが、「罪を犯したけれども罰せられるべきでない」という論理は逆接であるという意味において、筋の通り方に差があるということである。

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