犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『壊れる日本人』 その2

2008-12-04 23:37:30 | 読書感想文
現代の情報化社会では、悩み事があれば、すぐに携帯電話やパソコンのメールで他人の意見を聞くことができる。これは相互依存である。こうなってくると、悩みの種を自分だけでじっくりと考えて乗り越える道を探る能力が確実に衰えてくる(p.33)。それどころか、自分宛てのメールが入っていないかどうか、返信が遅れていないかどうかを四六時中気にしていなければならず、自分のペースで生活をすることができなくなってくる(p.37)。これも相互的な共犯関係にある。楽をすれば、必ず失うものがある。そして、得るものがあれば、必ず失うものがある(p.18)。失われたものとは、じっくり考える習慣、画一的でない対処法、ゆとりや沈黙を大事にする人間関係である(p.48)。もちろん、現代人が昔の生活様式に戻ることは現実にはできない。できることは、便利さや効率の良さに接したとき、それに全面的に流されずに踏みとどまって考える視点を持つことである(p.73)。

医師のインフォームドコンセントも、本来は患者との間の相互理解と信頼を確立するための目的で導入されたものであった。しかしながら、現在では、後でトラブルが起こらないようにするための形式的なものになっている(p.130)。これも、患者の「知る権利」という考え方に端を発するものであるが、完全に逆効果が生じている。医師が患者に病名(典型的にはガン)を告知していなかった時代には、自分が患者の立場だったらどうだろうかと悩み、患者の人生観をも考慮に入れながら、最も適切な方法を選択することができた。しかしながら、患者の「知る権利」に応えるということになると、診断結果をストレートに告げるだけで終わる方向に行ってしまう(p.132)。機械的に結果を告げさえすれば、インフォームドコンセントが果たされたことになるからである。これは、予防法務の発想の悪しき側面である。

社会的な仕事の専門分化の進行によって、専門的職業人がますます視野狭窄的になってきた。すなわち、自分の仕事の判断が社会全体の中でどのような意味を持つのか、当事者の立場になったらどうかといった柔軟な発想をしなくなり、規則と慣行の中だけで物事を処理するようになっている(p.159)。このような杓子定規による弊害が目立つと、「何のための法律なのだ」という根本的な問いが避けがたく持ち上がってくる(p.104)。例えば、「少年法の精神は、可塑性のある少年の改善更生と社会復帰のためにある」という命題がある。この命題を絶対化すると、被害者の存在は全く見えなくなる(p.116)。これは、左右のイデオロギー以前に、専門分化のイデオロギーによって、鳥瞰的な視点が取れなくなっていることに原因がある。かくして法律家は、頭が固く世間知らずで、生きた人間よりも法律の条文ばかりに固執すると揶揄されることになる(p.117)。

科学主義の行き過ぎは、実証的な目的論と親近性がある(p.157)。これは、感情を排して理性を絶対視する思考ともつながってくる。医療においては、医師が標準的治療法の適応条件に合わない患者には関心を向けなくなるという行為において表面化する。すなわち、治療法が尽きて死が避けられなくなった患者に対しては、医師は興味を持たなくなるということである(p.128)。症状緩和や末期治療などのケアは、ホスピスにお任せである。このような流れは、刑事政策的には、応報刑から目的刑へという流れに一致する。法律家としては、起こってしまった犯罪には関心がなく、殺された被害者には興味がない。医者が治せる患者だけを治したいのと同じように、法律家はとにかく罪を犯した者を更生させたい。他方で、被害者や遺族の心のケアは、心理学者やカウンセラーにお任せする。「法律家は社会生活上の医師」と言われるのが皮肉なほど、現在の法律家と医師の負の部分は似ている。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。