犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小西聖子著 『犯罪被害者の心の傷』 前半

2007-04-11 20:14:14 | 読書感想文
犯罪被害者に対する心理的カウンセリングの手法に対しては、被害者の人権の問題を精神的問題として矮小化し、社会的運動から遠ざけるのではないかという疑念も向けられている。しかしながら、小西氏も述べているように、法的援助と精神的援助は背反するものではない。裁判という2次的被害を受けやすい局面において、犯罪被害者が合理的に行動するためには、被害者のカウンセリングという手法は当然必要である。

問題は、心理学と法律学の相互の専門化、細分化が進んでしまった状況において、1人の被害者の人生をどのようにして統一的に説明しうるかということである。近代刑法は、未だに17世紀のデカルト心身二元論の枠組みを用いている。そして、近代刑事裁判は、立憲主義の法治国家の下で、同じく17世紀のロックによる社会契約論によって支配されている。これに対して、精神分析学や心理学は20世紀に入って発展を見せた分野であり、両者にはほとんど接点がない。

法律学は、社会科学の1つでありながら、もはや万学の祖を自称している。それは、法律学の扱う「法律」というものが実用的であり、人間の社会生活にとって不可避的であることに基づく。現代社会は法治国家であり、三権分立であり、民主主義である。この事実には、もはや宗教のような絶対性がある。そして、現代社会を生きる人間に対しては、本人の意思にかかわらず人権が保障されている。

小西氏が行っている精神科学や臨床心理学も、法律学からみれば、単に学問の自由(憲法23条)の表れであると位置づけられる。学問の自由が保障されてない国家であれば、小西氏は研究ができないという理屈である。かくして、法律学の理論は、万学の祖として、他の学問に対してメタの位置に立とうとする。検閲の禁止(憲法21条2項)が保障されていなければ、小西氏は心理学の本も安心して出版することができないと言われれば、心理学からは返す言葉がない。

心理学と法律学とは確かに両立するものであり、今後はますます連携が必要となってくることは確かである。しかしながら、そうであればあるほど、そのどちらが主導的な役割を果たすかが厳しく対立する場面が出てくる。これは文脈による問題の捉え方の争いであり、今のところは心理学が法律学に多くを譲っている状況が見られる。法律学の理論は、他の学問に対してメタの位置に立とうとするからである。このような法治国家の絶対的な体制を率直に認識しない限り、被害者の人権の問題が精神的問題として矮小化されているという実感はぬぐい難いものとなる。

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