犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

美谷島邦子著 『御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年』より その1

2010-08-17 00:01:31 | 読書感想文
p.123~

 8月、時効が中断したままのボ社関係者を除いて、時効を迎えた。ボ社の事情聴取はされないまま、同社の修理ミスの背景や具体的原因は永久に解明されることはない。真相が、国際間のみえない圧力の下で消えてしまう。無念でならなかった。遺族からは、「納得がいかない」と再調査を望む声が上がった。
 公の場で、どのような過ちが、何故起きたのか明らかにしたいという希望は叶えられなかった。今後の安全対策に役立つ資料が、日の目を見ることがないのが残念でならなかった。私は、「人を罰してほしかったのではない」と改めて思った。

 事故直後に、遺族が刑事告訴を起こすのは負担が重い。この方法しかなかったが、遺族が本当に望んでいるものはそこにはなかった。刑事告訴をしたことで、私たちは、原因究明を求めるのには、刑事責任を追及するやり方は問題があることを知った。
 刑事責任の追及は、事故の原因究明にはあまり役に立たない、逆に支障になっているのではないか、と話し合った。多くの人が係わり分業で作業がなされている場合、そのひとつひとつの動きを切り離して、どの人がやったのかを特定するのは困難だ。そこで個人の刑事責任を追及しても、原因究明にはつながらない。

 ここまで何度も記しているが、事故の原因究明に欠くことができないのは、当事者にありのままに語ってもらうことだ。しかし、当事者には、刑事事件の捜査で語れば責任を追及される、という恐怖感がある。米国でとられているような「免責」という方法をとらないとだめなのではないか。個人の責任を追及するという枠組みは果たしてよいのだろうか。遺族たちで何度も話し合った。


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 刑事裁判とは、証拠によって被告人の有罪・無罪を決める場であり、検察官と被告人との熾烈な戦場です。従って、「当事者にありのままに語ってもらうこと」は目的ではなく、原因究明も目的ではありません。また、「二度と過ちを繰り返してほしくない」「こんな悲しい思いを他の誰にもさせたくない」という人類の願いに近づくように努力する場でもありません。
 被害者が当事者として想定されず、疎外されてきたのには、このような理由があるように思います。過ちが繰り返されるのは当然です。

 人が理不尽に打ちのめされる心情は「語り得ぬものの沈黙の行間に示される」のに対し、裁判の用語はそれを受け止めることができません。従って、どんなに「人を罰してほしいのではない」と言っても、「それが罰を叫んでいることになるのだ」と評価され、裁判上では厳罰感情という名を与えられます。
 「犯罪のない社会になってほしい」と訴えるだけでも一苦労であり、さらにその苦労を表に出すや、「被害者参加制度は被害者のためにもならない」との批判が飛んでくるわけですから、刑事裁判とはその程度の仕組みだとの感を強くします。

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