犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤沢周平著 『長門守の陰謀』より

2011-12-06 00:06:03 | 読書感想文
p.140~

 振りかえると、単純だが真直ぐな一本の道が見えた。その道を歩いて、いまの場所まで来たことに、鶴蔵はほぼ満足していた。その鶴蔵が、ごく稀にだが、人間の別の生き方といったものに心をとらわれるようになったのは、40を過ぎてからであった。もっとくわしく言えば、42の厄年を迎えた3年前ごろからである。

 一軒の店の主になった鶴蔵は、同業のつき合いとか、あるいは仕入れ先の人間をもてなす必要があったりして、時どき小料理屋や茶屋で酒を飲むことがあった。そういうとき鶴蔵は、自分をいかにもそういう場所にふさわしくない人間のように感じるのだった。一緒に飲んでいる人間は、大方は大そう場馴れしていて、酌取りの女を相手にうまい軽口を叩いたり、三味線にあわせて渋い喉を聞かせたり、合間に女の手を握ったりする。

 しかし、そんなふうだからといって鶴蔵は、それで足しげく茶屋に通って女の扱いをおぼえたり、端唄を習ったりして、酒席で女にもてたいということを考えているわけではなかった。ただそういうとき鶴蔵の頭をかすめるのは、やりようによっては、こんなふうではない45の自分だってあり得た、というふうなことだった。器用に端唄を唄ったり、何気ないふうに女の指をまさぐったりしている自分がいたかも知れない。そう思う気持には、僅かだが悔恨が含まれていた。

 悔恨は、かりにいま、そういうことを考えても、もはややり直しがきかない場所にきてしまったという思いから生まれた。その気持は、なぜか年々強まるようであった。時にはその思いのために、以前はかがやくようにみえた自分の歩いてきた道が、日がかげったように色あせて見えることさえあった。それは鶴蔵が40半ばになって、行く手に老いと死が見え隠れするのに気づいたせいかも知れなかった。歩いてきた道を、そのまま歩いて行くと、そこに死がある虚しさを見たせいかも知れなかった。


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 「アラフォー」という流行語を待つまでもなく、いつの時代も人生は1回きりであり、未来の先にあるものは死であり、過去の人生を変えることはできず、人間は同じことを悩み続けているものと思います。
 
 ただ、平均寿命が延びたのと情報量が増えた分だけ、江戸時代の40歳と現在の40歳とでは精神年齢や人間の成熟度が隔たっており、捉えている問題の地点が浅くなっているのではないかと想像します。

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