犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

星野博美著 『銭湯の女神』

2007-10-06 11:58:52 | 読書感想文
旅行会社のパンフレットなどの写真の隅っこに小さく、「写真はイメージです」という注意書きが書いてあることが多い。これは苦情処理のための予防法務の典型である。誇大広告か否か、虚偽表示か否か、数々のトラブルを経験してきた人類が、苦難の歴史の中から発明してきた結晶だと言えないこともない。しかし、結晶にしては何とも情けない。法的な争いが積み重ねられることによって、多くの単語が発明されてきた。自己責任、詐欺的商法、セールストーク、説明義務違反などといったものである。しかし、いかなる写真もイメージに決まっている。そして、人間が表象するものもイメージに決まっている。従って、パンフレットの写真と自分のイメージが食い違うのも当然である。この恐るべき事実を自分で考えずに、予防法務の理屈に委ねて解決できると思い込んでしまえば、人間は確実にものを考えなくなる。

星野博美氏は写真家であるが、同時にエッセイの文才もあって、幅広い支持を得ている。写真は機械によってイメージをそのまま写像するものであるが、そこでは人間がカメラを覗きこんで一瞬のうちに対象を切り取るという作業を経ており、言語で対象を切り取る作業と変わらない。まさにウィトゲンシュタインが述べるところの、論理空間内の言語による「写像」である。言語による写像に長けた人が、カメラによる写像に長けていることも当然といえば当然である。エッセイと言えば高校生の日記のようなものと勘違いされそうだが、個々人のエッセイを突き詰めていけば、最後は普遍に戻るはずである。


p.162~
私は新鮮な空気を求めて窓から顔を出し、窓の外を流れ続ける風景を何時間も何時間も、ただひたすら眺めていた。ふと、自分がこの窓から見える風景しか見ていないことに雷が落ちたような衝撃を受けた。進行方向右側の風景を一度も見ていない! 自分は世界の左側しか見ていない。そう言語化して認識してしまったが最後、いろんなことが気になって仕方がなくなった。私は世界のどこを見ればいいのだ?

p.177~
私たちは毎日、数えきれないほどの瞬間を体験し、人々とすれ違う。その一瞬が二度と戻らないという事実を頭では理解しながらも、それをていよく忘れることで生き続けている。たまたま電車で隣り合わせた人、道ですれ違った人と「もう二度と会わないだろう。さようなら」といちいち自覚してしまったら、いつか気が狂うだろう。特別なことだけを記憶にとどめ、あとは忘れてしまってかまわない。そうやって無意識のうちに記憶を選択することで、私たちはかろうじて正気を保っている。

p.205~
ある日、写真展会場に20代前半くらいの女の子がやって来て話しかけてきた。OLをやりながら、夜間写真学校に通い、いずれは写真家になりたいという。写真、見てもらえますか、といって彼女が取り出したのは、友達が砂浜に座ってピースサインをしたりはしゃいだりしている様子を撮った、ごく普通のスナップだった。「どう思います?」、そう問われて頭の中が真っ白になった。「やっぱり留学とかしたほうがいいですか? 周りがけっこう外国とか行ってるから、行ったほうがいいのかなと思って」。これも強烈な問いだった・・・

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