犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

時津風部屋力士死亡事件

2007-10-05 16:46:04 | 実存・心理・宗教
ここ数か月、国技である(はずの)大相撲が揺れている。すなわち、土俵の外の議論が華々しい。そこでは、朝青龍が巡業を仮病で休んでサッカーをしていた問題と、時津風部屋の力士である時太山が死亡した事件とが比較して論じられることが多い。この違いは、改めて言うまでもなく、後者では人が死亡していることである。日本相撲協会の北の湖理事長も、「人の命がなくなっていることを深く受け止めないといけない」と述べている。

生きている人間が、「人の命がなくなっている」という事実に圧倒されるのは、生命が人間にとっての絶対的な基準だからである。すなわち、朝青龍にとっては2007年10月5日の地球が存在するが、時太山にとっては2007年10月5日の地球が存在しない。「命あっての物種」という諺にもあるとおり、生死の問題は他の問題とは質が異なる。これは当たり前のことである。当たり前のことであれば、本来は言っても言わなくても同じである。ところが、この「人の命がなくなっている」という絶対に逆らえない言説を正面からぶつけられると、多くの人間は虚を突かれる。すなわち、普段の生活の中では考えていないことであり、忘れていることを指摘されたからである。いじめ自殺にせよ、人間が「命の重さ」を語り出すのは、誰かが死んだ後であると相場が決まっている。

北の湖理事長がわざわざ「人の命がなくなっていることを深く受け止めないといけない」と述べたのは、それまでは重く受け止めていなかったことを意味している。朝青龍は横綱であり、相撲協会の看板力士の不祥事である。これに対して、時太山は無名の序ノ口力士であり、相撲協会としてはそれほど重く受け止めていなかった。協会の本音を言えば、朝青龍のサッカーのほうが問題だったであろう。協会にとっては、人間を生命の論理で語ることなど慣れておらず、普段の行動パターンからは「横綱」「序ノ口」という肩書のほうが重要であった。多くの国民の違和感は、この協会の論理に向けられた。その先には、伝統の名の下に暴行が許されてきた閉鎖的な体質への批判が続くことになる。

しかし、人間を生命で語らずに肩書で語ることは、相撲界の伝統に限らず、むしろ現代社会のニヒリズムの特質である。その典型として、今年5月の松岡元農水大臣の自殺をめぐる論説があげられる。松岡大臣の自殺に際しては、今回の事件のような意味で「人の命がなくなっていることを深く受け止めないといけない」と語られることはなかった。最後まで国民の前で真実を話さなかったこと、職務放棄であることが激しく責められた。それは政治的な文脈において、久間元防衛大臣や赤城元農水大臣の辞任と並列されて、現在でも不祥事として扱われている。もちろん松岡大臣と時太山を比べてみると、自殺と他殺の違いや、権力者と無名の若者との違いなど、多くの違いが指摘できる。しかし、絶対に変わらないのが、「人の命がなくなっている」という疑いようのない事実である。生命は、人間にとっての絶対的な基準である。ここでは、死に方や生前の肩書を論じれば論じるほど、最初の直観的な問題設定、すなわち「人の生命が失われていること」の重さは見えにくくなり、遠ざかってゆく。

「社会問題」の切り口では、当然の帰結として人間の生命は軽く取り扱われる。「人の命が失われている社会問題」と「人の命が失われていない社会問題」とに分けられるのがオチである。人間の生死をめぐる哲学的問題は、どう頑張っても社会生活の中で解決して先に進むことが無理な種類のものである。実用性と有用性を至上命題とする社会科学では、このような質が違う話は手に負えない。現代の情報化社会はますます複雑化し、専門用語が飛び交い、肩書や資格が重要となっている。このような社会の中で、今回は「人の命がなくなっていることを重く受け止める」という文法が突如として持ち込まれた。多くの国民が、この言説を正面から受け止めて納得したことは、深い哲学的な真実を示している。「時太山事件では人の命が失われている、だから朝青龍問題よりも重い」というプリミティブな論理がその筋を通したことは、現代社会において健全なことである。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
スポーツ界の地獄 (ささ舟)
2008-02-09 10:25:02
こんにちわ。
時太山事件と同様な事件は、このところ頻繁(?)に起きています。私の息子もある大学野球部で酷い目にあい、瀕死の状態で脱出したばかりです。
福島県須賀川市中学柔道部で女子部員が植物状態にされたり、ある高校空手部で酷い後遺症が残るケガを負わされたり、明大応援団では酷い虐待・暴力に耐えかね自殺者が出たり・・・。もう、末期的です。
どの事案を見ても共通点は、命の重さを全くわかっていない事、話を進めるのに非常に時間がかかること。一般に街角で同様の暴力行為をしたならば、即逮捕なり補導なり大騒ぎになるんです。実際、公園で元気のいい奴らが喧嘩をしていたら、即「おまわりさん」がやってきて、ニュースにもなり、校長先生は保護者会で説明をする・・・という事件を間近でみたことがありますが、早いのなんの!ほんの数日で起承転結です。まあ、喧嘩はよくないけど面と向かってぶつかりあって結果(鑑別所?行き)は、すべて自分で受けるんですから・・・。
でも、一連のスポーツ界の暴力事件といったら・・・
命が失われるなど、重大な結果となっているのに、なんで何ヶ月もかかるんでしょう。
これは、スポーツ界の地獄のオーラが働いているからです。昔も色々あったけど、最近の加害者たちの悪さときたら本当に・・・悪魔です。表向きにはスポーツマン面で、自己弁護するのも天下一品です。

亡くなった若い力士さん、とても苦しかったですね。酷いことした人たちには、きっと重い天罰がくだされることでしょう。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。