犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

『刑法 判例百選Ⅰ』

2010-05-27 23:36:19 | 読書感想文
p.61~ 「自招危難」
 自招危難に対する緊急避難は、判旨によれば社会通念に照らしやむを得ないものとしてその避難行為を是認することができる場合には肯定の余地がある。しかしその具体的な判断基準は必ずしも明確でない。緊急避難を肯定する判例の出現が待たれる。

p.95~ 「法律の不知」
 最近では、主として責任説の側からではあるが、違法性の意識の内容に検討が加えられている。違法性の意識の内容は故意説にも共通する問題であり、判例変更の動きと合わせて、今後の展開が注目されよう。

p.133~ 「不能犯」
 客観的危険説の判例への影響は今のところ明らかではない。今後、有力学説が判例の中でどのような拡がりを見せるかは注目されるところである。

p.209~ 「共犯と罪数」
 具体的事案の解決に当たって、犯罪的意思の一個性、被害法益の性質等の実質的基準を加味し定立してゆくために、今後の判例の集積を待つこととなろう。


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 法学者が何気なく使う言い回しに、「判例の集積が望まれる」というものがあります。私も、あまり深く考えずによく使っていました。
 知的好奇心や学問的野心に燃えた研究者がオリジナルな体系を確立し、学界に名を残すためにしのぎを削る場においては、サンプルとしての新判例が楽しみで仕方がないのは通常のことだと思います。その反面として、「二度と同じような思いをする人がいなくなってほしい」という犯罪被害者の言葉の意味が理解できなくなります。

 刑法学は罪と罰の学問であり、その厳格さと崇高さは哲学にも至ります。そして、現実に密着した実学を追究し、理論と実務を融合し、机上の空論にならないためには、裁判官の判決文の一言一句を穴が開くほど読んで判例評釈をしなければならなりません。学界の中では、「判例の集積が望まれる」ということについて、疑問を差し挟む人など皆無でしょう。
 しかし私は、そんなに新しい判例が待ち遠しいならば、自分でそのような犯罪を起こして実際に裁判を受けてみてはどうかと、冗談ではなく感じることがあります。

「学者とは、学問を人生とする者のことだ」 池田晶子

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