犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『人間自身 考えることに終わりなく』 第Ⅰ章「生死は平等である」より

2007-04-23 18:48:18 | 読書感想文
先日亡くなった池田晶子氏は、犯罪や裁判、法律についてよく言及していた。法律的な文脈ではない。数字やデータは全く登場しない。あくまでも哲学的な「善悪」からの考察である。現代社会における犯罪や裁判への批判は数多くあるが、池田氏のような切り口は、他に類を見ないものであった。大阪大学名誉教授・大峯顕氏が述べている通り、人間とは何のために生きているのかという原点に遡った考察は、池田氏をおいて他にいなかった。

池田氏の述べる犯罪論、法律論は、法曹界とはあまりにも言語レベルが違っていた。法曹界の人間にとっては意味がわからない。もしくは、意味がわかったとしても、仕事上それに納得することは許されない。「法律は時代や場所によってコロコロ変わるものである」など、法曹界の人間はその立場上、口が裂けても言えないことである。恐るべき真実であり、反社会的であるがゆえに、それは隠しておかなければならない。もちろん、犯罪被害者の悩みや苦しみを捉えているのは池田氏のほうである。

池田氏は、なかなか他人に話が通じないというもどかしさを述べていた。これはその通りであろう。哲学の文章とは、逆説的表現を用いつつ、読者自身が考えることを促すものである。多くの人に誤解を受けてしまうのは、哲学の文章の宿命である。「生死は平等である」という文章も、一見すれば次のように読めてしまう。本質的なことは、死ぬことそのものであって、死に方は問題ではない。従って、天寿を全うしようが、犯罪で若くして殺されようが、罪を犯して死刑になろうが、どれもこれも大して変わらない。このように読まれてしまうと、逆に犯罪被害者遺族を傷つけてしまう。これは非常にもったいない。

犯罪という現象は、極めて人間的なものである。法律的な文脈は、それをあくまでも画一的、実証的に取り扱っている。国家や社会の維持にとっては、もちろんその方法は必然的となる。しかしながら、それは同時に犯罪の人間的な部分を必然的に切り落とすことでもあった。法律的な文脈は、犯罪者の人間的な部分を切り捨てた。そして、被害者の側については、そもそも画一的、実証的な取り扱いからは問題外であるとされてしまった。ここでもう一度被害者を見直そうと言っても、議論は混迷を極めることになる。人間を語れない言語レベルによって人間を語ろうとしても、無駄な時間を積み重ねてしまうからである。

現代社会においては、一方では精密な裁判制度が確立しており、加害者に殺意があったかなかったかが細かく争われ、証人を呼んだり証拠物を集めたりして大騒ぎをする。他方では、凶悪事件が起きるたびに、学校で「命を大切にしましょう」という教育がなされているが、それでも子供達は命の重さの実感が持てない。そもそも、哲学的な「善悪」「生死」「存在」からの考察を抜きにして、これらの問題を語ろうとするのが無理な話である。そうであるがゆえに、形而下の社会制度を維持すべき法曹界は、形而上的な池田氏の指摘を受け入れることができない。

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