p.141~ 『何を信仰しているの』より
先日亡くなった前ローマ法王、ヨハネ・パウロ2世を「聖人」として認定するか否かの審査会議が、バチカンで行なわれているという記事を読んだ。新ローマ法王の選出選挙、コンクラーベの政治性も凄かったが、これもちょっと凄い話である。要するに、何でもヒエラルキーにしてしまうのである。「神の前の平等」のはずの宗教界でも、このヒエラルキーは、「死んだ後まで」ついて回るのである。
宗教の本質とは、現世的価値に対して永遠的価値を提示するところにあるのではなかろうか。癒しや復活など現世的価値としての奇跡的出来事は、宗教の本質とは本来無関係のはずである。ゆえに、宗教が奇跡それ自体を価値とするなら、すでに話は転倒している。宗教など、早い話が、永遠のふりをしたしょせんは現世利益じゃないかと言われても、仕方ないのである。
科学により説明不可能なことのみを奇跡とするような宗教は、科学の優位に立っているつもりで、じつは科学に従属しているのである。神の奇跡なんぞ、本当に感じているわけではないのである。そういう人々が、現世利益、現世的ヒエラルキーの追求にかまけることになるのは、当然ではなかろうか。
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上記は、元ローマ法王のヨハネ・パウロ2世に関する8年前の『週刊新潮』の連載記事です(平成17年9月8日号)。池田氏の文章は必然的に断定口調であるため、好き嫌いが分かれ、連載がなされていた頃には「態度が傲慢だ」「高みから人を見下ろしている」といった批判もよく耳にしました。それぞれの時事ネタの熱が冷め、筆者が亡くなり、その後は論理の確実さだけが残っているように思います。
人間が「神」について最も深く考える場面とは、「神がいるならば何故このような悲しいことが起きるのか」という疑問に直面するときだと思います。人間が本当に自ら激しくものを考える状況は、動機も理由もなく生じるものではないからです。そして、ここでの本当の問いは、神がいるか否かということではなく、「神がいるか否か」という借りてきた問いを拒否しているという点だと思います。
「神がいるならばこのような悲しいことは起きない」と語れば、神を信仰する立場からの多種多様の反論が来るのが通例ですが、その反論の理屈はどれも苦しいと感じます。「人間の罪に対する裁きである」「この出来事を起こしたのは神ではない」「全てのことに意味がある」「目に見える現実だけで判断してはならない」「神は乗り越えられる試練しか与えない」等々ですが、どれも単に他人の思想を借りて来ただけのように思います。
新ローマ法王の最大の課題はスキャンダルで揺らぐ教会の信頼回復であり、特に神父による児童への性的虐待や、不透明な運営が問題視される財政管理組織「宗教事業協会」への対応が問題であると報じられています。私には難しいことは良くわかりませんが、信頼回復への困難な課題が、「神がいるならば何故このような悲しいことが起きるのか」という問いよりも厳しく激しいとは思えません。