![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/4b/13a1b8cec59dc92c151f62bac61c2306.jpg)
今西乃子著 『心のおくりびと』 p.106~より
復元ボランティアを始めたころ、笹原留以子のところに自称納棺師と名のる女性からボランティアを手伝いたいとの申し入れがあり、それを受け入れたことがあった。ところが遺体復元を始めると、「遺体の復元はアートである」と遺族の前で豪語する大失態が起こった。こんな女に用はない。一刻も早く出て行ってもなわないと遺族に申し訳が立たない。
留以子はていねいに女性に断わりを入れると、その後はこうした申し出にはいっさい応じないことに徹した。しかし、その後も、復元師として弟子入りしたい、復元の手伝いをしたいという問い合わせはあとを絶たない。マスコミはマスコミで、「衝撃の一瞬を撮らせてください」などと遺族が傷つくようなことを平気で言う。
遺体の復元にかけまわることもさることながら、さまざまな対応に追われ続けて、そのころには留以子の精神状態も限界に来ていた。毎日が非日常の中に立たされ、あまりにも多くの苦しみ、悲しみに出会ったため、留以子の心の中の受け皿がいっぱいになってしまったのだ。留以子はスケッチブックに今回の災害で復元した人々の顔を思い出すままに次々に描いた。
***************************************************
この本は、読む人を選ぶ本だと思います。また、「とても読み進められない」という時には二種類の場合があり、「すらすら読める」という時には一種類の理由しかないと感じます。この本を読んで流れた涙は、悲し涙でなく、もちろん感動の涙でなく、もとより命名する意味もないと思います。
この本の最初には、「全ての『いのち』に捧げる」という言葉から始まっていますが、ここに「死」を「命」と称するレトリックを感じてしまえば、あとは字面が感傷的に流れるに過ぎなくなるものと思います。正当に「命」「いのち」を語ることができる者は、人間の存在が誕生と死によって時間的に規定され、生と死を合わせて初めて人生の形が捉えられることを知る者のみだと思います。
人間の言葉には限界があり、語り得ぬものには沈黙しなければなりませんが、そのギリギリのところまで語ってしまっている者は、同時にこの人間社会においてとてつもない大仕事を成し遂げているのだと感じます。語らずに示すということは、自分では既存の言語を用いて限界まで行動し、自分の人生に嘘をつかないことにより、他人にはその限界の所在が示されるのだと思います。
私は、要領や効率が求められる経済社会の論理に浸かり、名誉を求め、地位や権威に価値を置いて暮らしています。仕事の中では、笑いながら「葬儀ビジネスは今後の成長産業である」といった話をしており、特に違和感も覚えなくなっています。私は今のところ、幸いにもこの本がとても読み進められない人間の二種類のうちの一方に属していますが、この本から選ばれないような人生を送ってはならないと心底感じます。