犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

二木雄策著 『交通死』 前半

2007-04-21 20:28:00 | 読書感想文
犯罪被害者とその遺族の二次的被害は、哲学的な問題を法律的に処理されることによるものが大きい。犯罪被害は人間の実存の深淵に関わる問題であり、「人生」「生命」の文脈で捉えられるべき問題である。しかしながら、近代法治国家のシステムは、それを「被害者」「原告」の文脈に強制的に引っ張り込む。

法律万能論は、哲学的な問題まで法律によって解決しようとする。しかし、このような法律万能論は、人間の生活の中から生死の問題を遠ざけている現代版ニヒリズムの構造そのものである。交通事故による死者の数は、お役所における統計上の数字でしかない。これは、現代社会が人の死に慣れ切っているように装いつつ、実際には人の死を遠ざけていることに他ならない。

裁判は閉鎖的な法の世界の儀式の様相を呈するが、これはニヒリズムを避けるための法治国家の知恵である。被害者は「1人の人間」ではなく、個性のない「ヒト」とされる。裁判は無味乾燥でそっけないものでなければならず、裁判官に人間性があってはならない。そして、何よりも裁判の格式や形式は絶対化されなければならない。これは、多くの人間が哲学的思考に耐えられないことに基づいており、犯罪被害の問題を根本的に解決できないことを前提としている。

現在社会のニヒリズムの根深さは、裁判官や弁護士に対して、「生命への畏敬の念を持って仕事をしてほしい」「人間性を取り戻してほしい」と主張するだけでは済まなくなっている点にある。裁判官も弁護士も、すでにそれぞれの一度きりの人生を生き始めてしまっている。やり直しができない。誰でも死が怖い。そこで、人間は自らの仕事に夢中になり、誇りを持つ。それぞれの職責を全うしようとし、職務倫理を維持しようとする。そこでは、無味乾燥な裁判を遂行することが正しいこととなり、裁判官が人間性を消すことが正しいこととなる。

法治国家における法的安定性の要請も現代版ニヒリズムの一種であり、人間の生命を疎外する。現代社会のシステムにおいては、裁判官や弁護士が被害者を「モノ」ではなく「1人の人間」として扱うならば、これは仕事にならない。身が持たず、精神的に潰れてしまう。警察官も検察官も組織の一員であり、機械的処理を行うのが正しい行動であるとされる。流れ作業の正当性を懐疑し、自らの仕事の内容を疑うならば、人間は自分の人生を根底から疑うこととなり、ニヒリズムの恐怖に直面してしまう。

社会がなかなか変わらないのは、社会というものが実体的な物質ではなく、それが人間の集まりであることに基づく。その人間の集まりにおいては、どの人間も一度きりの人生を送っており、やり直しが効かない。人間は死を見るのが怖く、生活の中から死を遠ざけている。そのような人間相互間のルールが法律であり、それを研究するのが法律学である。哲学なき法律学において、犯罪被害の問題を根本的に解決できない原因がここにある。

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