犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

翻訳規則としての定義

2007-04-21 20:38:53 | 言語・論理・構造
言葉には、必ず意味がある。意味のない言葉はない。すなわち、言葉の意味が先に知られていなければ、その言葉が何を表現しているのか人間にはわからない。これが言葉の不思議である。それは、ソシュールが指摘するように恣意性を有するものであり、ウィトゲンシュタインが述べるような言語ゲームの網の目である。言葉の意味は、人間がこの世に生まれてきたときには、すでに決められてしまっている。

法律学は、言葉を定義したことによって、言葉の意味まで押さえたように錯覚しがちである。しかし、言葉を定義するためには、まず「定義」という言葉の意味を先に知っていなければならない。この「定義」の意味は、法律的な定義によってもたらされることはできず、言語そのものによってもたらされるしかない。「言葉」は言葉であり、「意味」は言葉であり、「定義」も言葉である。法律的な定義とは、とりあえずこの無限の循環を便宜的に断ち切っておく手法にすぎない。定義によって意味を捉えることはできない。

法律学は、条文の一言一句の言葉を非常に大切にする。これは、人間が言葉を道具として使いこなしているという錯覚であり、言葉を囲い込んでいるという誤解である。実際のところは、人間のほうが言葉に囲まれているしかない。我々は言葉を語っているつもりが、言葉に語られている。法律的に言葉を対象化しようとするならば、人間はすでに言葉を利用してしまっているしかない。

これは、自分の頭の中の動きを慎重に追ってみればすぐにわかる。人間が法解釈をしている時には、その条文の文言と現実に発生する事態との対応関係ばかりに集中している。しかし、そのような法解釈をなしうるためには、他のすべての言葉と現実に発生する事態との対応関係を前提としていなければならない。我々は、言葉の外にはどうしても出られない。厳密な法律単語の定義は、不明確な日常言語の意味に依存している。

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の断章には、このような「定義」の性質が書かれている箇所がある。これを、「世界→事実→命題→言語→定義」というつながりで並べ替えてみるならば、次のようになる。

1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
4.5 「事実はしかじかである」…… これが命題の普遍的形式である。
4.001 命題の全体が言語である。
3.343 定義とは、ある言語から他の言語への翻訳規則である。すべての正しい記号言語は、そのような規則によって任意の他の言語へ翻訳可能でなければならない。これが、すべての正しい記号言語が共有するものである。

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