犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

実存の企投性

2007-04-01 19:14:08 | 時間・生死・人生
法治国家においては、裁判とはすべて司法権が取り仕切る国家作用の一環であり、被害者は加害者に対して直接何もしてはならないのが決まりである。傍聴席で声を出せば退廷となり、遺影を出すことも制限されることがある。被害者の裁判参加に関しても、公正な裁判が害されるか否かという観点からの議論ばかりがなされている。このような法治国家の体系は、その存在自体が、すべて上からの一方的な押し付けのように感じられる。そして、人間であれば、反射的にその押し付けに反抗したくなる。これが、ハイデガーが指摘するところの「実存の企投性」である。

ハイデガーは、人間が自分の意志に関わらずにこの世に生まれてきて、気がついた時にはそれぞれの人生を生きているという存在の形式について、「世界に投げ込まれている」という表現をする。平穏無事に日常生活を送っている分には、その世界と一体化していればよい。人間は、病気や死、不幸や挫折に直面していない間は、何の疑問も差し挟まずに世界と一体化して生きている。これは「実存の被投性」と称される。

これに対して、犯罪という現象に巻き込まれたときには、人間はその世界との一体性を断ち切ろうとする。これが「実存の企投性」である。そして、加害者にとっては、現在の裁判システムはこの企投性の行使に都合がよい。この世界には確実に事件が起きており、そこには確実に犯人が存在する。しかし、加害者は否認をすることによって、その犯人と自分との一体性を断ち切ることができる。人権論の枠組で捉えれば自己負罪拒否特権であるが、ハイデガー哲学の枠組で捉えれば企投性の行使である。被告人は、もし自分が自白をすれば有罪となるが、否認を通せば無罪となる可能性がある。このような一瞬一瞬の判断に自分の人生を賭けて裁判を戦う被告人の姿勢は、人間の「実存の企投性」の側面をよく表している。

他方、犯罪被害者の側は、そのような企投性の行使ができない。被害を受けたという疑い得ぬ残酷な事実に直面させられており、それは否認しようがない。世界との一体性を断ち切る術がない。自らは実存の企投性を奪われ、しかも加害者による企投性の行使が自らの被投性と連動してしまう。「世界に投げ込まれている」という人間存在のあり方からすれば、被害者にこのような状況を押し付ける法治国家の体系には、反射的に反抗したくなるのが人間として自然である。被害者が傍聴席から声を出すことは、法律学から見れば違法だが、ハイデガー哲学から見ればごく当然の行動である。

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