犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ドストエフスキー著 『罪と罰』 下巻より

2011-10-09 23:52:10 | 読書感想文
p.296~
 実は、あるときぼくはこう考えてみた。かりにナポレオンがぼくの立場にあって、しかも栄達の一歩を踏み出すために、ツーロンも、エジプトも、モンブラン越えもなく、そうした輝かしい不滅の偉業の代りに、そこらにごろごろしているようなばかげた婆さん一人しかいない、14等官の後家婆さん、しかもその婆さんの長持から金を盗み出すために、どうしても殺さなければならない、しかも他に道はない、としたらだ、彼はその決心をするだろうか?
 これは偉業とはあまりにも程遠いし、しかも罪悪だ、という理由で、二の足を踏みはしないだろうか? ぼくはこの≪問題≫にずいぶん長いあいだ苦しみぬいたんだ。だから、ふとしたはずみに、彼はそんなことにためらいなど感じないどころか、それが偉業であるとかないとか、そんなことは考えもすまい、とさとったとき、ぼくはたまらなく恥ずかしくなった。もし彼に他の道がなかったら、つまらんことはいっさい考えずに、あっという間もあたえないで、いきなり絞め殺してしまったにちがいない!
 ところがぼくは、考えぬいた末、絞め殺した……権威者の例にならって……結果はまったく同じことになったが! ここで何よりもおかしいのは、きっと、結果は同じことになったということだよ。

p.376~
 青年のこの圧しひしがれた尊大な熱狂というやつは危険です! わたしはあのときはからかいましたが、いまははっきり言いましょう、ああした若々しい熱のこもった最初の試作というものが、わたしは大好きなんです。
 あなたの論文は不合理で空想的ですが、そこにはなんとも言えないひたむきな誠意がひらめいています。毅然たる青年の誇りがあります。必死の勇気があります。あれは暗い論文です。だがそれもいいでしょう。わたしはあなたの論文を読むと、それを別にしておきました。そして、しまうとすぐに、ふとこう思ったものです、≪さて、この男はこのままではすまんぞ!≫とね。さあ、どうでしょう、こうした前置きがあったあとで、その後に来るものに熱中せずにすむでしょうか?

p.567~
 剃られた頭や足かせを彼は恥じたのではない。彼の自尊心がはげしく傷つけられたのである。ああ、自分で自分を罰することができたら、彼はどれほど幸福だったろう! そうしたら彼は恥辱であろうと屈辱であろうと、どんなことにでも堪えられたにちがいない!
 彼は厳しく自分を裁いた、しかし彼の冷酷な良心は、誰にでもあるようなありふれた失敗を除いては、彼の過去に特に恐ろしい罪は見出さなかった。彼が恥じたのは、つまり、彼がある1つの愚かな運命の判決によって、愚かにも、耳も目もふさぎ、無意味に身を亡ぼしてしまい、そしていくらかでも安らぎを得ようと思えば、この判決の≪無意味なばからしさ≫のまえにおとなしく屈服しなければならぬ、ということであった。


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 ラスコーリニコフが近代刑法の裁判制度の上に乗せられたならば、間違いなく精神鑑定が行われ、責任能力が争われ、弁護人からは心神喪失による無罪が主張されるものと思います。これは、被告人の本人の真意や希望に関係なく、法曹三者の仕事の決まりごととして、つべこべ言わず決まったルートに被告人を乗せるということです。

 故意の背後に犯行への動機が位置づけられ、既成概念の枠組みの中に収まるならば、被告人の情状の立証はある意味簡単だと思います。ここでは、弁護人は被告人のことを「正常である」「普通の人間である」「差別するな」と弁護します。他方、この枠組みに収まらないときは、弁護人は開き直るしかありません。ここでは、被告人は弁護人によって「異常である」「普通の人間ではない」「差別しろ」と弁護されます。

 「自分で自分を罰することができたら、彼はどれほど幸福だったろう!」というラスコーリニコフの恥辱は、国と時代を超えて、人が人を裁く場につきまとうジレンマであると思います。但し、精神鑑定の結果によって有罪・無罪が決まるような制度下においては、心神喪失と判定される恥辱よりも、刑罰から逃れ得る快楽のほうが上回ってしまうのだと思います。

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