犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『41歳からの哲学』より

2010-08-01 00:06:29 | 読書感想文
p.99
 性交をする、すなわち精子と卵子が結合して受精するという生殖の過程そのものは、決して自分の意志ではない。生殖のために必要とされるこの変てこなシステム自体は、断じて人間の意志によるものではない。それは自然の意志というべきなのか、とにかく人知を超えた自然の所産である。だから、子供を作るのは自分ではない。子供は天からの授かりものなのである。

p.100
 産んだ子供を現実に育てるのは大変だ、生まれてくる子供も気の毒だ、と言いたくなる。しかし、産みたくて産んだ子供なら、頑張って育てるのは楽しいはずである。さらには、生まれた子供は自分ではない。自分が作って、自分が産んだのだから、子供は自分の子供だと人は言いたくなるのだが、しかし、自分が産んだ子供は自分ではない。他人である。

p.108
 我々、この世に生まれた時、まだ名はなかった。ただ自分であった。その、ただの自分に名が与えられ、人は自分とはその名のことだと思うようになる。つまりこれは、思い込みなのである。人は、自分とはその名だと思い込み、その思い込みのまま、過去から未来へと人生を生きてゆく。これは驚くべき光景である。

p.137
 自分の命は自分のものだ。本当にそうだろうか。誰が自分で命を創ったか。両親ではない。両親の命は誰が創ったか。命は誰が創ったか。よく考えると、命というものは、自分ではないどころか、誰が創ったのかもわからない、おそろしく不思議なものである。言わば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。
 こういった感覚、この不思議の感覚に気づかせる以外に、子供に善悪を教えることは不可能である。これは抽象ではない。言葉によってそれを教えるとは、考えさせるということだ。考えて気づいたことだけが、具体的なことなのだ。


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 大阪市西区のマンションから長女・桜子ちゃん(3)、長男・楓ちゃん(1)の遺体が見つかり、母親の風俗店従業員・下村早苗容疑者(23)が死体遺棄容疑で大阪府警に逮捕された事件では、例によってマスコミが世論を盛り上げ、早くも忘れかけるというパターンに入っているようです。「どうして救ってやれなかったのか」という問いは、これも決まって攻撃の矛先が児童相談所や近隣の住民に向かいます。そして、最後はこのような犯罪を生んだ社会構造にまで広がり、これといった具体策が出ずに終わるように思います。

 すでにこの世を去った池田晶子氏の言葉は、このような行き止まりの問題に対する最善の答えを予め出していると感じられます。人の生死という形而上の問題を、形而下の政策論で捉えれば、すぐに限界が来るからです。親になる資格もないのに親になってしまった人間に対して、我が子を虐待して殺さないように教えるには、命に関する哲学的な考察を経るしかないはずです。但し、私の狭い経験からの推測ですが、下村早苗容疑者には我が子を殺すことの意味を考えるだけの能力はなく、真の意味での反省は一生かかっても無理だと思います。

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